序にかえて・人の記憶
私の住む地域では、少し離れた場所に不燃物の収集場があって、土日と水曜に持って行ける。最近では近くのスーパーが古紙やプラスティックの回収をしてくれるようになったので、以前ほどではないかもしれないが、それでも訪れる人は多い。
ある時、私がそこで猫の缶詰の空き缶を出していると、立派な皿や器の食器をたくさん持って来られた人がいた。横に立っている方をじろじろ見るわけにも行かないので、女性というぐらいしかわからなかったが、出された食器はどれも美しく、欠けても古びてもおらず、それなりの風格もあった。
担当者の男性たちは、皆いつも親切でていねいなのだが、それは私たちに対してで、もちろん受け取ったものに対してではない。
その食器類を受けとったおじさんも、躊躇なくそれを後ろの大きな箱の中に、がしゃんがしゃんと投げ入れた。別にそっと重ねておいたとしても、いずれは砕かれるものだろうから、そうやって引導を渡されたことは器にとっては、いっそ幸福だったのかもしれない。
帰り道ずっと私の中では、あんなに立派な美しい食器をここに持って来る前に寄付するとかバザーに出すとか、何かできなかったのだろうかという思いが消えなかった。もしかしたら、いやな家族の遺したものとか、逆に大切な人が早逝したつらい思い出の品とかで、一気に手放して忘れたかったのかもしれないなどと、勝手な空想までたくましくした。大きなお世話もいいところである。
その女性とかおじさんとかが、どうこうというのではなく、そのことから受けた印象は、何か日本はおかしなことになってるなあ、絶対何かがこわれるか、狂うかしはじめているなあということだった。私はあまり、と言うよりふだんはまったく、日本がどうとかいう単位では、ものを考えないのだが、それでも、その時はそうとしか、気持ちをことばに、まとめられなかった。
ちょうどそのころ、大学の「国際関係論」という授業で、開発途上国の産業に関するDVDを鑑賞した。正直、DVD鑑賞で一時間とるとか、それってどうなんだろう、視聴覚機器の利用とかいうので、こういう授業が増えているなら、それは授業や教育の充実とはむしろ逆行するんじゃないかという危惧も感じなかったわけではない。
とはいうものの、たしかにそのDVDはためになった。超おおざっぱなまとめ方をすると、開発途上国で安価な労働でできる、消耗品のような品物を量産し、どんどん使い捨てにして行くことで保たれている経済のあり方、その一方で良心的で長もちをする質の高い商品の生産が困難になり、そういう職人や業者が滅びて行っている流れがあり、そうやって貧しい国の労働力を買いたたいて使いはたそうとする動きに抗して、現地の人たちに土地の名産や民族の伝統を生かした産業を根付かせようという努力もなされている、という内容だった。少なくとも私には、そのような枠組みが、強く印象に残り、あの、むぞうさに割られて砕かれていた、まだ十分に使えそうな、美しい陶器の皿たちと重なった。
すぐにできるものを量産して、すぐに捨てる。こわれやすい、愛着を感じなくていいものを、気軽に使っては手放して行く。たとえば子育てや介護で忙しい中では、そういう生活もやむを得ないのかもしれない。しかし、あくまでも現実は徹底的にわきにおいた理想論として言うと、保育所でも病院でも監獄でも、そういう場所だからこそ、長く使える美しいものをていねいに愛して使う場所と時間と人手を保障できたなら、子どもも老人も犯罪者も(いっしょにするかね)どこかちがって来るのではないか。ものを量産し、消耗することは、人間や国を、消耗品としてしか見ない感覚にもつながりはしないか。
逆に豊かさを満喫し、高価な車や服や装飾品を浪費する人たちにしても、それが愛場や満足の対象でなく、気に入らなければ即処分する消耗品でしかないのなら、貧富の差も高級品も安物も関係なく、それは生き方の安直さ、軽さとしては同様だろう。それもまた楽しいと言ってしまえばそれまでだが、その楽しさや苦しみは、多分ホームレスの生き方と基本的には変わらない。
もしかしたら、そうやって、とっとと忘れて消し去るのは、物にとどまらず人にとどまらず、記憶や歴史や過去といったものを無視して、何も見ないで考えないで生きることにもつながらないか。まあそれも、悟りを開ききった高徳の禅僧などの境地にも通ずるものがあるのかもしれないが、多くを得て煮詰めたあげくに到達した空白や無とは、やはり何かがちがう気がする。
人の記憶に残りたくない、誰にも忘れられてこの世から消え去って、生きた痕跡さえ残したくないというのは、それこそ記憶にないほど昔から私のひそかな願望だった。空白や無や虚無や孤独に私はいつも、心のどこかで魅了される。だが、実際には消そうとしても忘れようとしても、決して消えない記憶の多くが私の中には残っている。もちろん愉快なものばかりではない。それでも見つめていれば、どうということもないような楽しい記憶がいくつでも、思い出される。この瞬間にも生まれ続けて、降り積もる。
私は独身で、子どもはいない。2018年1月の段階で71歳になる。国文学の大学教授だったが今は退職して、非常勤の仕事と年金で生活している。祖父母も父母も亡くなった。学資を援助してくれていた叔母夫婦も亡くなった。親戚はまだいるが、孤独と言えば孤独である。
13年ほど前に叔母夫婦が前後して他界したあたりから、叔母のマンション、田舎にあった新旧二軒の家、自分が今住んでいる、これまた新旧二軒の家の片づけと処分に追われてきた。それなりに裕福だった叔母夫婦の遺品も、田舎の家に祖父母の代から残っている家財も、膨大なんてものではなく、普通なら引っ越し業者に一括処分してもらうのが、まともな人間のすることだろうと思う。
もちろん私も多くの物を処分したし廃棄した。その一方で自分でもよくわからない基準から、たくさんのものを手元に残した。言うまでもなく、その多くは私が死ぬかぼけるか弱るかすれば、即処分されて、あの、箱に投げこまれて砕けて行った食器類と同じ道をたどるだろう。それがわかっているからこそ、そのものたちのごく一部の履歴書を、私は残しておきたいと思う。高価なものは、むしろ少ない。消耗品としか言いようのないものもある。それでも、思い出と記憶に彩られれば、それは私の中で貴重なものとなる。私自身も、その品物に価値を与える貴重な存在になるのだろう。
たとえば、田舎の家の紙の束にまじって残されていた、破れた絵本の一部。色もまだ新しく鮮やかだ。見るまでまったく忘れていたが、これは私がおそらく一番古い記憶に残っている、幼児の時期に見ていたものだ。
この絵のすべてを、私は今でもはっきりと覚えている。外国風のいささか無気味でもある美しい女の子の顔や、スカートをはいて飛んでいる、大きな蝶々たちの姿を、幼時に見た時のままで、まるで解凍するように、よみがえらせることができる。華やかな誕生日の画面に心ときめかせ、羊を後ろに登校する少女の世界にうっとりと溶けこんだ。現実の蝶々も、私の中ではいつもどこか、このような服装をしているような気が、大人になってもし続けていた。
その一方で、夜空を見あげる二人の子どもの姿も、よく覚えているのに、少女の腕に抱かれて寝ている子猫のことは覚えてなかった。気づいていなかったのかもしれない。それほど私は幼かった。
母は英語の教員免許も持っていて、この絵本に載っている英語の歌を私に教えてくれた。今でも私は一部分ならそれを歌える。だが私の耳の記憶は目ほどではないらしく、母のその声は、あまりはっきりとはよみがえって来ない。
不思議な気がしてならないのだ。今は高齢者になった自分が、多分まだよちよち歩きで、ことばもあまりしゃべれない幼い時に目にした絵本の、ひとつひとつの絵の記憶が、こんなにまでも残っていて、実際の絵とともに、焼きつくように再現されて行くことに。
人の心は、脳髄は、魂は、心臓は、いったいどこに散らばって、貼りつけられて、保存されているのだろう。
誰のものでもない、私の記憶。私が消えれば、失われるもの。
だからこそ、今、私の中で、それらは楽しく、かけがえがない。(2018.1.10.)