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断捨離新世紀(11)ライトノベルとダンボール箱

ライトノベルと小さいダンボール箱

 イベントにはまる

毎年ハロウィンには、道路に面した角部屋の二つの窓に、それぞれいろんなハロウィングッズを飾る。その後はクリスマスのディスプレイに引き継ぎ、ついで正月風にしつらえる。ありあわせのいろんな飾りがそこそこあるので、飾るものには困らなかった。

ところが今年は、去年から体調がすぐれず、ばりばり仕事ができなかったこともあって、小人閑居して不善をなすとは、まさにこういうことだろうというような、年間通じてのイベント予定の計画に、どっぷりはまってしまった。ひなまつりからお節句、七夕から十五夜と、最初はそれも、家の中にあるものでやりくりするはずだったのが、次第にネットでそれらしい小物や下げ飾りなどをいろいろ注文して、ひとつひとつは大した価格ではないが、ちりも積もれば何とやらで、相当な金額をつぎこんでしまった。

品物は宅配便やゆうパックで配達されてくる。これまでネットでの買い物を利用したことがほとんどないのに、いきなり毎日さまざまな荷物が届くから、配達人も驚いたことだろう。

発送元の会社や個人によって、宅配便の形態もいろいろだった。中国とか外国の産地?を経由してくる商品は、しごくぞんざいに紙でくるんであるだけで、実際一部破損しているものもあった。その一方で、たった一本の造花をどでかいダンボールにつめものぎっちりでピラミッドから出た美術品かよと言いたいぐらい徹底的に梱包して来るものもあり、後者には悪いが、どっちもどっちとしか言いようがなかった。

小さな雑貨や小物を作っておられる個人の作家さんたちは、おしなべてすごくていねいだった。封筒にはかわいいシールが貼られ、心のこもってお手紙が添えられ、時には小さな「おまけ」がついていたりして、親友や家族にでも、こんな心のこもったことはしない私は、ただもう恐縮するやら驚くやら、こんな商売のしかたで大丈夫なのだろうか、よくよく優雅な趣味として儲けなどは度外視でやっておられるのだろうかと、つい失礼な連想などした。最近話題になっているインボイス制度とやらは、私のような公務員上がりの年金生活者にとっては、およそ関係ない事案で、興味も理解もまだ全然なのだが、漠然と、それはこういうかわいい小さな心のこもった作家や芸術家の活動を直撃して被害を与えるのではないかと感じて、とても落ちつかない。

バースデイのトナカイ

忘れもしないが、最初のネット販売で注文して私の手元に届いたのは、奇しくも私の誕生日に到着した、手のひらにおさまるサイズの、くにゃくにゃのふわふわのぬいぐるみのトナカイだった。クリスマスの飾りとして注文したのだが、まるで誰かからのプレゼントのようだ.。私はすっかり気に入って、お守りのように机や棚の上において、今もまだ毎日ながめている。

こういう小物は普通の送り主なら、小さめの箱に入れて送って下さる。先に言った法外な大きさの箱はともかく、それなりに大きめのものは、やはりそれなりのサイズの箱で届く。銀行預金が危機に瀕するほどに買い物をしまくった結果、私の家の書庫は、それら大小さまざまのダンボールの空箱であふれて、足の踏み場もない状態になった。

とっとと畳んで処分すればいいのだが、さまざまのサイズの真新しいダンボール箱を見ていると、何かに活用したくてたまらなくなる。不要な品々を人に差し上げて断捨離するのに、こんなきれいなしっかりしたダンボール箱は本当に役に立つし、仕事にかかる呼び水にさえなるのだ。

というわけで、うじうじ保存していた。中でも、小物が入っていた小さめの箱は、なかなか使いみちがありそうにない。

ライトノベル三昧

ところで体調不良の時期の気晴らしだか逃避だかに私がはまっていたのは、庭の手入れとネットショッピングともう一つ、毒にも薬にもならない、いわゆるライトノベルとか呼ばれるのだろう、甘い優しいおしゃれな恋愛小説類だった。と言ってもそこは昨今のこととて、かわいい女性のヒロインもしっかりしていて特技や職業意識がきちんとあり、男性たちも料理や家事に堪能で(料理人やパティシエという設定も多い)、人間関係も人権を守り差別や偏見がなく、読んでいてまことにストレスがない。

昔はこういう無難な軽い小説と言われるものを読むたびに、それこそ石坂洋次郎の作品など、女性蔑視や保守的思考で、息がつまりそうになり嫌悪感で死にそうになっていた自分のことを思うと、何といい時代になったものかと感謝する反面、もしかしたら、今の子どもや若者の中には、これを読んで昔の私と同様に、辟易して満たされず苦しんでいる人もいるのだろうかと夢想する。小説『めぐりあう時間たち』で同性愛のパートナーと豊かに満ち足りた生活をしているヒロインの一人のクラリッサが、人工授精だっけの娘の恋人のこれまた女性の目から見ると、先進的でも自由でも何でもなく、鼻持ちならない俗物でしかないように、若い世代や次世代は、常にそういう苦しみを抱くようになっているのかもしれないと。

しかしこっちは老化と病身で、そこまで考えるのはしばらく休ませてもらってもいいかと開き直って、そういう今風のライトノベルを読み飛ばして楽しんでいた。それもまたバカにならない金額なのと、読後の本がうずたかく山になるのは、イベントグッズと同じである。

ブックオフに売っ飛ばせというのがもちろん断捨離的には王道の健全な思考だが、江戸時代の本の調査などをして来た実感で言うと、こういう軽いどーでもいい本こそが、保存されないで残らないで、後世には資料として高い価値を持つのである。名作や古典など、それこそ、どこにでも残って百年経っても読める。永遠に消え去るのは、気軽に読んで処分できる、こういった本なのだ。

そんな大げさな話でなくても、名作や古典なら、この先ひょっと再読したくなったら図書館ででも青空文庫でも、どこでも読めるし注文もできる。こういう、すぐに店頭からも消え去る本は、見失ったら最後、もう二度と死ぬまでお目にかかれない。そう思ったら処分はできない。かねて私は他の物はともかく本だけは最後まで持ち続けて、残った人に迷惑をかけるのもやむを得ないと決意している。

とりあえず、田舎の書庫に入れておこうと思った。例の、親切な隣人が私の貴重な書籍や資料のおおかたを、ごみに出してしまったいわば虐殺の現場である。

とは言っても私はその方々のお人柄や好意を恨んだり憎んだりしたことはなく、ずっと親しくおつきあいは続けている。そして最近は、家の片づけが進むにつれて、あの時に処分されたものが、しかたがなかったとか、かえって助かったとかは、未来永劫決して感じも考えもしないけれど、それはそれとして、私のかつての家と庭を買ってきれいにして、多分お幸せに住んで下さっている方々の存在は、やはり必要なものだったし、悪いものではなかったと考えるようになっている。私の人生や財産の整理の上で、その方々の存在と役割は、総合的にはやはりプラスに作用したし、収支決算はまちがってはいなかったと総括している。

私は今もまだ体力が回復してはいないし、コロナ騒ぎも終焉してはいないから、直接自分でそこに本を持ち帰ることはできない。だから、その隣人にお願いして、荷物を送って書庫に入れておいていただくしかない。もちろん、開けて読んでいただいてもかまわない。

その方々はお元気だけれど、やはり私と同程度の高齢者なので、大きな荷物ではお願いできない。ならば、文庫本がせいぜい二十冊程度入る小さいダンボール箱なら、サイズ的にもぴったりではないか。私の二つの気晴らしの残骸…ライトノベルとダンボール小箱の両者がこうして一気に処理できる。

郵便局での格闘

さっそくお電話とハガキで事情を話してお願いし、快く了承していただけたので、荷造りをして郵便局に持ちこんだ。これでは割高になりますよ、大きな箱になさったら、云々かんぬんと、親切な局員の方はアドバイスしまくって下さったが、実は私は余りまくって手こずっている昔の古い記念切手もわんさと持っていて、その処分もかねているので、料金は現金としてはゼロですむのだ。

なので、切手はあるので料金だけを教えてと頼むと、これまた切手は買い取れるしあれこれあれこれと、いろんな知恵を授けて下さった。こういうので助かる場合もたしかにあるが、そういうことは皆配慮した上で、針の穴を通るラクダのような方針を決定している身としては、全部説明する方が結局早いとわかっているから説明するが、とにかくもう時間をとられてかなわない。

ついでに思い出したのだが、余談の脇道の話をひとつ。

葬儀の解約

母の晩年に、ひょっと私が死んだとき、手のかからないようにしておいてやろうと、近くの葬祭センターに私の葬儀を予約した。母が亡くなったときに、もう必要がないからと解約しに行ったら、もう一年のばしたら、解約金が少しは高くなる(どうせ振り込んだ分より減るのだが)と言われて、急ぐことでもないからと先にのばした。

去年、体調を崩したときに、自分の死後に親戚その他がちょっとでも手続きをしないですむよにしておこうと、その契約も今度こそ解約しようと思ったら、書類が見つからない。

まあなくしたはずはないので、気長に整理したら出てくるだろうが、だめもとと思って電話してみたら、いともあっさり「書類が紛失していても解約の手続きはできます」と言う。それはありがたいと思ったら、「ご自宅にうかがわせていただきたい」という。

当時私の体調はまだ万全ではなく、家もそこそこ散らかっていて、人を呼べる状態ではなかった。まあそこは何とかするとしても私自身が、下痢や吐き気がひどくて、長時間客との応対はできそうになかった。「できればそちらにうかがうか、喫茶店ででも」と提案したのだが、自分の仕事の都合がどうたらこうたらと、どうしてもおうかがいしたいと言うので、手続きだけならそう長時間でもあるまいと、思いきって承知した。

そうしたら担当の方がおいで下さって、結論から言うと、無事に解約はできた。金額も十万ちょっとで、それほどものすごい額ではない。私の体調も何とか持ちこたえて、トイレや洗面所に話の途中でかけこむことはなくてすんだ。

だがしかし!

担当の方は私の感覚では数時間話しこまれて「何とか解約しないですむ方法はないか」という手段を、私の家族構成や老後の計画も含めて共有し説得されようと努力の限りをつくされた。一応来客モードに部屋を片づけ体調を整え、不安も抱えながら必死で平常の様子を維持している私を前にしてである。

まあね、わかるのですよ。七十代なかばの一人暮らしの年よりが書類もなしで解約を申し込んだら、家族とのトラブルが後に生じないかも心配だろうし、そもそも私が認知症かその予備軍かもしれないんだから、自宅に来て本人に会って確認したいと思うのも、葬儀社としてもっともです。

ただ、こっちの勝手を言わせてもらえば、それなら一応契約書を見つけて下さいと言って、後にのばしてほしかった。

「亡くなられた後で、こういう契約があってもご親戚は迷惑ではありません」とか「お手続きはこちらで、相談させていただきます」とか、あのね、そういう親戚関係家族関係終末医療その他もろもろ、あらゆることを考慮した上で、選びぬいた結論なの。親戚家族の葬儀や遺産相続をとりしきって、死ぬ目に会ってきたこの私ですよ。土地の名義変更、外国籍の遺族との交渉、あらゆる要素を処理して対応して来た結果の結論ですよ。一族や家族親族の今後もできる限り予測して、私にできることを考えた上での処置ですよ。考慮の余地も選択肢もない。そもそもこれまで十年以上会いも話しもしていない相手の人生に、何を関わろうとしているの。

ぶちきれまくり

私が一番許せなくって、にこやかに対面しつつも、首絞めたろかと思ったのは、こいつが私をなめて、だましたことですよ。「契約書もないのだから、やはりお宅にお邪魔して直接お目にかかってでないとこちらも不安」とか、きちんと言えばいいじゃないですか。はっきり言えなくても、それらしいことを。こっちもバカじゃないから察しますよ。

それをこいつは徹頭徹尾「私もちょっと仕事の都合が」「どうしても時間がとれなくて」とかで通しやがったんですからね。もうその態度で、その時点で、千回死んでもおまえのとこの葬儀社に世話になんかなるかと思ったわ、ええ。

いっそ黙っていればよかったのかもしれないけど、めんどうだったから、親戚との関係やこれまでの家族や親戚の死後の処理に自分が閉口した話とかを、最低限聞かせてやって、とにかく考慮の余地はないし、自分の死後は残された人がどうでもできるようにしておきたいのだ(変な書類が出てきたり、変な連絡が来たり、変な人物が現れたりして、遺族にストレスを与えることだけは避けたい)という意志を、それなりにきっぱり伝えて手続きをさせていただきました。「何かご不快なことがあっての解約かと気にかかりまして、これで安心しました」みたいなことを最後に言っていましたが、正直最初からこれまで、不快なことはひとつもなかったんですけどね、最後のあのご訪問で十年分の不愉快さがいっぺんに来たわ。もちろん言わなくて、にこやかにお礼を言って送り出しましたけれどね。ああしんど。

皆さま、そういうこともあるから、契約の解約その他は、お元気な内にせいぜいすませておかれませ。

はあ、話を元に戻します。

何とか荷造り

で、郵便局の方は、何とか大きな荷物にして安くできないだろうかと、ご親切にいろいろ何人もで考えて下さいましたが、結局無理だとわかって、でも何かをどうかして、少しは割り引いて下さいました。ありがたいことです。
とにかくそれで、小さめの小包をいくつか送り出しました。小さいダンボール箱はまだいくつかあるので、これがなくなるまでは、ライトノベルを送り続けます。

でかめの箱の方ですが、これはちょっともったいないけど、庭に積み上げてある枯れ木を燃えるごみに出すのに、ゴミ袋を破らないよう、これに入れて出すようにしたらいいのではないかと計画中です。これもうまく行けば、枯れ枝がなくなるころ、ダンボールの山も消えるかもしれない。(2022.3.23.)

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カツジ猫