断捨離新世紀(13)突破口
家の中の古い手紙や、いわゆる紙類の整理や始末がどうしてもつかないで悪戦苦闘している。そうこうしている内に、次々新しい手紙や書類が降り積もって、根雪の上の新雪みたいに、なだれ寸前の状態になる。
何とか打開法や突破口をと考えていて、ふと、ひとつ考えついた。
少し前に山とある祖父母の代からの古い手紙の山から、ある程度面白そうなものを選んで、ファイルして親戚に送った。これでいわば、わが家の文書類の中核は他者に渡したという達成感と安堵感で、しばらくはいい気分だったものだ。
ただその時、私の母関係のものだけは、ついちょっと送りそびれた。なんぼなんでも、娘の私がまだ生きている間は、これは他人に引き渡すのはちょっと無責任な気がしたのだ。
結局手紙に限らず、母の使ったぼろぼろの財布だの、私が作ってやった名刺の残りだの、母が書いた友人への弔辞の原稿だの、志を同じくしていた人たちといっしょに配ったビラの残りだの、何一つ捨てられずに、あちこちに食い込んで、整理作業を拒んでいる。
思いついたのは、これらをいっそ一つにまとめて「母箱」とでもいうものを作っておけば、そういうものの一切を当座はそこに放り込んでおけばいいのではないかということだった。
さっそくボール箱をひとつふたつ選んで、それに最近よく使う上等の便箋の表紙がきれいすぎて捨てられずにいたのをはりつけて、母の名刺もはって、そこに母の関係のものを何でも入れるようにしたら、実にいい気分で片づく片づく。作業の途中で「これどうしようかなあ」と迷って元に戻しては中断していたものが全部、パンドラの箱(ちがうか)のように、この中に吸いこまれて行く。過大な期待はできないが、これは案外、停滞している片づけの一大突破口になるかもしれない。
祖母もそうだったが、母も日記をつけていて、時には手帳やメモ帳を使ってこまごま書いていたりする。常に冷静で事務的だった祖母とはちがって、ときどき知人や家族に対して、悪口雑言に近い、けんのんな記述も多い。私への悪口もときどき飛び出す。たとえばノートを使った日記のある日には、こんな記事があったりする。私が忙しい中、母がひとりで暮らしていた田舎の家に帰省したときのものらしい。
1月3日
耀子が車が混むから早く起こしてくれと云うので5時に起こした パンを焼いたりコヽアを入れたりして早く出るようにしているのに こたつを出したりゴミをやいたりぐずぐずして とうとう6時に出て行った 彼女も仕事に追われてイライラしているようでオールドミスの嫌らしい女になってしまった 17日に帰るから水道屋と大工をやとって置けとか私のためを思って考えているのかどうか私は迷惑でもう帰るなと云うつもり 私一代で住む者もないこの家にお金などかける必要はない 金がない金がないと口癖のように云うが無駄使いをしているのに気がつかないのだろうか? 私も長生きしすぎたと後悔している 年寄は何処も同じ厄介者だ もう来年は正月に何処にも行かず独りで過ごそう でなかったらオアシスにでも入って…それより生きているやらも判らぬ 用松さんと宮久さんが年賀に来た 私を人間らしく扱ってくれるのは党の人達だけだ 情なくて口惜しくて耀子の顔を見るのも嫌だ
箱根駅伝 復路は往路と同じく神奈川大が優勝 山梨学院大は2位 みちちゃんが来たのでお礼に菓子(クッキー)箱をやった モンブランのばあちやんより電わあり
文中のオアシスは、家の近くの保養施設みたいなとこ。モンブランのばあちゃんというのは、隣町の洋菓子屋の女主人だった友人。もうね、こういうのを読むと笑ってしまって、あらためて家族のいないまったくのひとり暮らしの自分が幸福だってしみじみ思う。
写真はその「母箱」に貼りつけている、きれいな便箋の使い切ったあとの表紙の紙。まだまだいっぱいあるけれど、箱を貼りつくすのに、がんばって手紙も書かなくては。(2022.11.2.)