断捨離新世紀(23)ほれぼれ
何かあんまり疲れて仕事が進まないので、天井近くの壁にかけてる時計がいくつか止まってたのを、動かしてやろうと電池を替えた。
叔母が亡くなったとき、マンションのあちこちにかかっていた時計を、田舎の家に持って行き、祖父の生きていたころ診療所にしていた部屋や、その他のあちこちにかけた。その家も人に買ってもらった後で、それらの時計も皆私の今住んでいる小さな家に移したから、ワンルームの一部屋に、何と時計が七つほどある(笑)。
叔母は富裕層だった割りに贅沢をしないというか、趣味に走らない人で、どの時計もわりと普通のものだった。それでも見ているだけで、叔母のマンションや田舎の家の姿がその周囲に浮かび上がって来るようで、私はなつかしくながめていた。
だが、年を取ると思わぬ落とし穴がある。ここ数年、足がめっきり弱くなり、昔のように不安定な椅子や棚によじのぼって、高いところのものを取ったり替えたりするのが、だんだん命がけの冒険になって来た。よっぽど覚悟と準備をしないと、いいかげんにとりかかると、転げ落ちて、床の上で冷たくなりかねない。
そういうわけで、いつからか、部屋の時計が二つまで止まっていたのを、ついそのままにしていた。私の家は今足の踏み場もなく散らかっているが、それは主として床の上で、胸から上の家の中は、昔のままだから、わりときちんと片づいている。ブログの写真で紹介しても、あまり問題がないぐらいだ。
だが、そこの時計が二つもとまると、だしぬけに家が廃墟っぽくなる。それはそれでも自分が半分幽霊になった気分で楽しいが、人が見たら荒れ果てて見えるだろうなと思うし、思い切って、しっかりした椅子をひきずって来て、よじのぼって、時計を下ろして電池を替えた。二つともがとたんにたちまち、すべるように短針が動き出したのは感動ものだったし、力仕事というわけでもないから、さほどバテずにもすんだ。
全部の時計は少しずつずれてはいるが、だいたい同じ時間をさすようになって、おとぎ話の時間が止まったお城がよみがえったような達成感で、毎日ほれぼれながめている。


それと同時に、今、ガザやウクライナや、イランをはじめとした中東の街では、こんなもののひとつひとつが、家族の歴史や思い出や、時には命そのものと同時に、こっぱみじんに爆撃で砕かれつつあるのだろうなと思うと、このささやかな壁の一角が、ありえない夢のようにさえ思えて来て、人間の愚かさも自分の無力さも、ひときわ苦々しく、腹立たしい。(2026.3.4.)