1. TOP
  2. 岬のたき火
  3. 断捨離狂騒曲
  4. (80)誰かとめてよ

(80)誰かとめてよ

卒論指導を担当する学生たちの集まる、いわゆる「ゼミ」を、私のいた大学では「ルーム」と呼ぶ。各先生の専門分野や人柄によって、それぞれのルームの雰囲気には特徴があった。ある年かさの温厚な先生と私のルームは、どちらも人数が多くてにぎやかで明るかったが、学生たちは二つのルームのちがいを、「お花畑の明るさ」と「火事場の明るさ」だと表現していた。どっちがどっちかは別に今さら言うまでもあるまい。

お花畑の明るさがあった、その先生のルームでは、卒業以後も交流は続いているだろうし、名簿や連絡網もきちんと存在しているのではないかと推測する。ひるがえって、火事場の明るさにみちていた私のルームでは、年賀状のやりとりもあまりなく、おおむね卒業後は縁が切れた。とはいうものの、伝統や慣習が嫌いな私は、それがあたりまえになるのもこれまた面白くないので、時には長くつきあったり深くつきあったりすることもある。

たまには泊りがけで旅行に行って遊び、夜中まで人生論や恋愛論に及んだ。飼い猫や家族や恋愛の話をしていた女子学生たちが就職し結婚すると、話題が職場の不満や、嫁姑問題に変わった。そのうちに息子の嫁や娘の夫の批判を聞かされたりするようになるかもしれない。

職場や地域や同級生の同年齢の女性たちからは当然そういう、子どもたちの配偶者についての話も聞かされる。ある時、一人がお嫁さんのことを「本当に家事ができない人でね」と嘆き、「驚かないでよ」と携帯の写真を見せた。いかなる映像だろうかと、びびりながらのぞいて見ると、台所の食器棚の中に大きさも種類も関係なくむぞうさに積み重ねられた器で、「ひどいでしょ」と彼女は言うのだが、正直私の食器棚よりはよっぽどましで、これのどこがそんなにひどいのかと、私は内心かなりあせった。「あーら、私よりよっぽどましよ」という冗談さえ、とっさに出ないほど動揺した。

私は自分が食べる程度の料理はするが、人に出すことはめったにない。よって、食器は基本的に一人分しかない。同じカップにご飯やおかずやスープや味噌汁やヨーグルトを入れて使うし、皿も小鉢も行き当たりばったりの手当たり次第だ。
これではならぬと漠然とは思っていたが、くだんの写真を見せられてからは、やっぱり何とかしなくてはと思い始めた。さらに、せっかく片づけるなら、皆が見てあっと驚くほどに、どこにもないようなきれいな棚にしてみたいと、無茶な野望がうごめき出した。

それはまだ全然実現できていない。そもそも、昔、子どものころに田舎の家で使っていた古めかしい食器の数々、叔母が山ほど遺してくれたとびきり上等の品々、さらに私がその場の勢いで買った一個ずつのいろんな器などなど、数は多すぎ、好みも種類も支離滅裂だ。第一、私の食生活がこの年になってまだ、砂漠のカーボーイほどにも定まっていないから使用目的が五里霧中すぎ、不確定要素があまりに多い。
きっと、こんなことしている内に老衰して施設に入るか、大病して食事制限の日々になるか、充実した健全な食生活を体験しないまま、一生を終わることになるのだろうなという、ろくでもない予想もつい頭をよぎる。

さしあたり、手をつけられそうなところから始めることにした。何が一番食器棚の中をごちゃつかせているかと考えると、これまた色も大きさもばらばらのタッパー類である。保存食用に使うことが多い分、適当に突っこんでしまうので、いかにも見た目が悪い。
私の食器棚は、もう手放した田舎の家にあるのとまったく同じのを大工さんに注文した、天井まである作りつけだ。何しろ食生活にはとことんむとんちゃくな私だから、特にかたちにこだわりがあったわけでもない。むしろ、新しく考えるのがめんどうで、特に不都合もなかった前のものと同じにしただけで、不都合がなかったというのは要するに真剣に使っていなかっただけである。
棚の種類や幅も適当だった。何を考えてそうしたかもさっぱり覚えがないが、最上段はかなり縦幅が広い。背の高いものは置けるが、落ちた時に恐いので、ふきんなどの軽いものしか入れていない。本来ならタッパーを置くにはいい場所だが、しょっちゅう使うには不便である。

棚の前、冷蔵庫の横のわずかな空間に、不燃物置き場に持って行く前の瓶や金属などをためておくゴミ箱がある。その上に何かのはずみにかごを置いたら案外見た目がよかったので、ここの壁にかごをつけてタッパーをおいたら面白いのではないかと考えた。さっそくありあわせのかごをつけてみたら、うまく行ったが、壁にぴったりかっこよくくっつくように釘を打ってひっかけるのは微妙な角度が決め手になり、思ったよりも難事業で、日曜の朝いっぱいを使ってしまった。

ばらばらのタッパーは、食器棚の最上段に載せて非常用にし、同じデザインの見てくれのかわいいものだけを選んで二つのかごに並べてみたら、なかなかよかった。
ただ、上段のかごに大きめのタッパーを入れたとき、はしっこが後ろの壁にあたって汚れたりしたらいけないので、使用済みカレンダーから切り抜いた花の絵を貼ることにした。いくらでもあるので、もし汚れてもかけかえられる。もし洒落た模様のビニール布や小さいポスターでもあれば、それを貼ってみてもいい。

さてこれで、タッパーの居場所は確保できたので、いよいよ食器棚の中を便利でカッコいい空間にしようと思うのだが、そうなると、はたとまた考えてしまうのが、いったい私はたまに来るお客さんに、どの程度の供応をするつもりでいるのかしらということだ。
紅茶コーヒーお茶をそろえて、お菓子と果物に限るのか。それなら叔母の遺したカップと、田舎の家で使っていた湯呑と、ケーキ皿でもあればいい。
しかし時にはパンやきゅうりやチーズやハム程度のものは出すこともあり、そうなると大きめの皿と取り皿ぐらいはなくてはなるまい。
ひょっと出前でも取るとしたら、ピザならともかく寿司だったら、汁椀もあった方がいいか。まさかと思うが、自分がふだん食べている程度の料理を出すのなら、小さな重箱や蓋付きの鉢なども必要だろうな。

いっそそんな器が何もなければ迷いなどしないのだが、汁椀も蓋付き鉢も取り皿も全部わんさとそろっているから悩ましい。古い方の家の棚に全部しまってあるのだが、何をどうそこから選んで、普段使う台所に持って来ておけばいいものか。
どの器もそれなりに古びているから人にはあげられないし、そこそこ立派な品で思い出もあるから処分はしにくい。茶碗蒸しの器までかなりの数があるので、その内にとち狂った私は、これらの器の活用のためだけに、会席料理やコース料理まで修得しようとし始めて、あたら貴重な老後の時間を無駄にするのではあるまいかと、誰もとめる者がいない一人暮らしの予測不能な暴走に我ながら毎日脅えている。(2019.4.12.)

Twitter Facebook
カツジ猫