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(115)守護神を作る

恐い本

小野不由美の「十二国記シリーズ」は最初は学生に勧められて読んだ。「いいですよう」とほめちぎりながら、いざその題名をしっかり覚えてなかったので、私は彼女をええかげんなやっちゃと思ってしまって大変悪いことをした。私自身それから、はまりまくったのに、「月の何とか、影の何とか」という題名をいまだにしっかり覚えられない。
それでも夢中になって読みふけり、「もうこんな素晴らしい小説を書いてくれる人がいるのなら、私は書かなくていいやと安心した」と皆に言ってまわっていた。シリーズの中のどれも好きだが、しいて言うなら「図南の翼」だったかな。読み上げた後は、初期の「悪霊」シリーズも読んで、けっこう好きだったし、その他のホラーものも見つけては読んだ。

「屍鬼」あたりから、面白いのだが、最初の華やかな甘さがなくなって、あー変な文壇のおじさん編集者あたりに言いくるめられて、大人の小説書こうとかしないでいいのにと、まったく何の根拠もない妄想で一人勝手にイラついていた。その後新しく出た「十二国記」シリーズの新作も何だか乗れず読み進められず、これは作者のせいなのか私自身のせいなのか、今もってわからない。
それでも上手いし楽しめるから、本を見ると買ってしまう。それで最近「残穢」を読んだのだが、これはマジで「屍鬼」とか「悪霊」とか、その他のホラーより恐かった。一見地味で私的な記録のようでいて、それもちゃんと効果的に使われているのが憎すぎる。

私は昔、私立大学で文学概論みたいなのを講義していたとき、いろんなテーマを手当たりしだいにとりあげていて、その中で「恐怖小説について」というのもやった。一応ラブクロフトとか、そのへんもいろいろ読んで、例によって超乱暴な分類をして、すべての恐怖小説や怪奇小説の恐さというのは「因果応報型」と「理不尽型」のどっちかだと、学生たちに説明した。ひどい目にあう人に、それなりの理由があって、どう祟られても文句が言えないタイプの恐さと、吸血鬼とか悪魔とか、こっちに何の責任もなくても向こうは行きあたりばったりに選択もなしに襲ってくるから避けようもないタイプの恐さと。もちろんこれは、境界が微妙なところもあるけれど、基本的にはどっちかである。

「残穢」は、それが両方ごちゃまぜになっているのが、こよなく恐い。理不尽で防ぎようがなく意味がわからない祟りかと思っていると、微妙に因果応報が出たり入ったりするのが、すごく何とも言えずに無気味だ。ひどい目にあう法則がわかっているようでいて、わからない。「ああ、もうそんな通り魔みたいなんだったらしかたないわ」と、あきらめがつくようで、「え、やっぱり理由はあったじゃん」と思わされ、じゃそれでなるほどと納得できるかと思っていると、また「いや、それだけってわけでもないのか」と思い直させられる、永遠の宙ぶらりんの後味の悪さ。いやーもう私もそりゃホラー小説を全読破してるわけじゃないが、それなりに何十編か百を超えるぐらいは読んでると思うけど、こんな気味悪くて後味が悪い話は、見たことがない。多分、ホラー以外でも知らない。

解説に紹介された著名人の感想のひとつに、「この本を家に置いておくのさえ恐い」というのもあって、そう言われるとたしかに私もこの文庫本を古本屋に売っちまおうかとちらと思った。しかし、そこがそれ、手放したって安全という保障なんか何もない。法則がないという法則の恐さだ。
だいたい私は文庫本は田舎の家の書庫に持って行くのだが、これはひょっとして、そこに隣接した私の以前の持ち家を買って、住んで下さっているご家族に何かあったらとんでもないと思って、まだそれなら私のパワーで封じこめておく方がよかろうと、しばらく手元に置いていた。

別の意味でホラー

そうしたら、少し前に、そのご家族が私を喜ばせようと思って書庫の大掃除をし、私の貴重な古い本や資料、家族代々伝わって来た手紙や文書までどさっとまとめて業者にごみに出してしまうという、これこそ信じられない大ホラーなできごとが出来した。何かもう、あまりのことに笑うしかなく、「そんなこととは」という感じで恐縮されて落ちこんでおられるご家族に腹を立てる気にもならず、とにかく途中で気づいて食い止めて、何とか残った資料や本を私は棚に並べ直して、「板坂家図書室」兼「板坂家資料室」として当面整備することにした。
捨てるために業者に渡すばかりに荷造りされた本や資料の、縛られた紐を切り散らかし、入れてあった箱や袋を投げちらかして、猛獣のような勢いで整理しまくりながら、とにかく文庫と新書は全部まとめて同じ棚につめこんで行くついでに、私は自分の今の家にあった読み終えた文庫の山を持って行って、それに加えるのに、例の「残穢」もためらいもなく、いっしょに持って行った。

片づけすぎた、そのご家族への恨みから、呪いのアイテムとしてその本を持って行ったって? いくら何でも私はそこまで品性下劣な人間ではない。
ただ何となく、私や家族の愛した本や資料があれだけ限りなく、いわば惨殺された修羅場にどんな恐ろしいパワーを秘めたホラー小説が加わったって、そこにうずまく絶望や苦悩や、そして赦しと諦めには、勝つわけがないと感じたような気がする。人に祟って思いを晴らすような「残穢」のひよわな魂たちなど、私と何代にもわたる家族の恨みと呪いと、それを鎮める理性と生命力に対抗できるとは、どう考えても思えなかった。

だが、そうは言うものの、まだまだ先の長い片づけを残して、街の自宅に引き上げてくると、私は次第に、そうは言っても、何かやっぱり、あの小さい建物を守る守護神みたいなものはあった方がいいんじゃないかなあと考え始めた。
無神論者で唯物論者を標榜しながら、こういうところは私は、そんじょそこらのカルト信者以上に妙なこだわりを抱いてしまう。自分の家にも仏壇や神棚やキリストとマリアの像の祭壇などがある上に、海外旅行で買ったマオリのお面や、友人知人からもらった怪しげな仮面が、あっちこっちにかけられている。あ、門柱や庭先には、沖縄で買ったシーサーもいる。それらを私は畏れるというより愛していて、これらが守れない運命なら、まああきらめるしかないかぐらいの気分で頼りにしている。

そのどれかを、あの書庫に持って行って飾っとこうかと思ったが、今さらそんな遠くの知らない場所に、出向させるのもかわいそうで、かと言って、何か新しいものを買うほどのお金はないし、どうしようかと考えている内に、ふとあることに思い当たった。
古い家二軒を手放したから、その分あちこちにかかっていた額などもはんぱなくて、立派そうなのは親戚にもらってもらったりしたが、古い母家の居間にずっとかかっていた、三つほどの額はそんなに高価なものでもなし、私の街の家にもかける場所はなくて、ずっと書庫においていた。他にもいくつか、そんな額があった。ほこりをかぶって隅に置いてあったそれらの額も、ひょっとしたら片づけ好きの親切なご家族には、捨てる候補に入っていたのかもしれない。

母と学生の思い出

居間にあった三つの額というのは、祖父母のいたころにはなかったもので、多分祖父の死後のいつごろかに、母がかけたものだった。母は旅行が好きで、国内のあらゆるところに国鉄のツアーなどに参加して行きまくっていたから、その旅先のどこかで手に入れたのかもしれないが、もっと近場のどこかだったかもしれない。母は簡単に私に説明したのだが、詳しくは聞かなかったし、よく覚えていないのだ。
何でも、どこかのお寺の和尚さんが描いたものだ、と母は言ったような気がする。同じお寺か別のお寺かもわからない。三枚の内の一枚は一休さんのことばを写した版画のようだし、もう一枚の仏の横顔は切り絵っぽい。もしかしたら、母自身が何かの教室で作ったものなのかもしれない。
和尚さんが描いたというのは、おそらく大きな目の仏の顔で、ちょっと小島功の漫画の絵に似た、色っぽいふくよかな顔をしている。唇には朱がさされていて、鮮やかに紅い。紺と赤の、そう高いものでもないが、よく似合った大きな額に入れてある。他の二つもだが、入れたのは多分母だ。

母は、音楽でも絵画でも、食べ物でも洋服でも、タレントでも作家でも、常に好みがはっきりしていた。どんなに高価な一流の立派なものでも気に入らなければけちょんけちょんにけなして、目もくれなかったし、無名で安物で普通のものでも、いいと思ったらとても大切にした。この仏の顔も、有名な和尚さんが描いたというだけではない、その表情とたたずまいが母のメガネにかなったのだろう。たしかに私も好きだった。
あの仏さんと、ついでに切り絵の仏たちと一休さんなら、長く母家の居間を守った上に、母の思いも加わっているから、立派にあの書庫を守ってくれるんじゃないだろうか。
そんな気がした私は、翌日田舎に帰ったときに、ほこりだらけの、あちこち傷んだ三つの額を、雑巾できれいに拭いて、そのへんにあった金槌と釘で、正面の壁と、その向かい側の、文庫本の棚を見守る位置にかけて見た。

思った通り、肉感的なくせに清潔な、その仏様の絵は、灯りに照らされて頼もしげに、かつ楽しげに見えた。母家の暗い居間に飾られていたときよりも生き生きして見えたのが、殊の外私はうれしかった。切り絵の仏たちと一休さんの版画も、その向かい側で悪くなかった。この部屋の壁には、これまで、それなりに私は、いろんな額をかけて見たこともあったのだが、どうもうまく似合わなかった。今回はどうやら成功と言ってよさそうだ。


私はもうひとつの部屋の方にも、残った額をかけてみた。川を隔てたすぐ近くの小さい神社が改修の時に地域に配られた版画を、これも母が額に入れていたのを、窓の上の方にかけ、昔、学生がプレゼントしてくれたオフィーリアの死の場面のちょっと大きな複製絵画を入り口の棚にかけ、ここにはシェイクスピア関係の本を集めて置くことにした。多分同じ学生が観劇の土産にくれた、「心中天の網島」の小春の手ぬぐいもかわいかったので私は額に入れていたのだが、それは私の研究や教育資料を集める予定の棚の上においた。

別の学生が授業中に作った自画像の版画みたいなのをくれていて、迫力満点なので捨てるにしのびず、これも額に入れておいたのを、入口前の柱にかけた。今はどうしているか知らないが、彼はでかくて強面で、就職した後も、「車から降りて、バン!とドアを閉めるときなんか、もうまるで『西部警察』です」と後輩の同僚が私にチクってくれたような迫力ある教師だったらしい。センスがよくてユーモアもあったから生徒たちには慕われただろう。
どう見ても、これは魔除けになる、と私はそれを見上げて、一人悦に入った。

どれもこれも、値段の点ではほぼ無料。しかし、そこにまつわる歴史や、関わる人のパワーという点では、絶大なものがありそうだ。
これらのものに守られた空間を、早く整理して、邪悪なものも交えながら、頼もしく力のあふれる世界にしたい。失われたものたちの鎮魂のためにも、一日も早く、そうしたい。(2020.4.5.)

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カツジ猫