(18)男たちの顔
(キリスト・仏像・活水女学院)
ごたまぜの信仰
男たちなどと呼ぶのは本当は大変恐れ多いお二人である。
何しろイエス・キリストと薬師如来なのだから。
大抵の日本の家と同じように、わが家の宗教もいいかげんだった。
一番身近だったのはキリスト教だろう。親戚づきあいはほとんどなかったが、もともとわが家の一族は長崎の出身で、祖母は幼い時に孤児になり、外国人の宣教師のおつきとして、各地を回っていたという。当時は良家の子女は学校に行ったりするものではなかったので、宣教師たちが開いた女学校にもなかなか生徒が集まらず、成績が優秀だったらしい祖母はそこへの入学を許された。生徒は十数人しかおらず、後の神近市子、中山マサなどと祖母は寄宿舎生活をともにしたようだ。
その学校は今の活水女学院で、母も叔母も、そこの短大で学んだ。キリスト教一辺倒の教育に母は反抗し、聖書に落書きをいっぱい書きこんで古本屋にたたき売って卒業したらしい。そのくせ、キリスト教のよさは認めていて、私を近所の町の日曜学校に通わせ、讃美歌も教えてくれていた。もっとも同時に軍歌もたくさん教えてくれたので、私は学生時代に覚えた革命歌や労働歌、讃美歌、軍歌をほぼ同じくらい、ちゃんと歌える。
クリスマスにはもみの木を
私の育った田舎の家には、外国人や日本人の宣教師もしばしばやってきて滞在した。クリスマスにはどこから調達したのか、天井まで届くような大きなモミの木が座敷に運びこまれて、てっぺんの星や、モールの赤いサンタや、白い雪だるまや、きらきら光る紐など、たくさんのオーナメントが飾られた。もっとも幼い私が喜びながら、子ども心に、そうまでうっとりしなかったのは、今思えば、そのモミの木はたしかに本物のモミではあったが、丸ごとの木ではなく、単に大きな枝だったから、平べったくて、半分壁によっかかって、いわば巨大なうちわのように、立てかけられている感じだったから、何とはなしに、これじゃないという気分があったのだろう。今では逆に、それはそれですごいことで、あんな大きな枝をいったい、どこの大木から切って来たのだろうと思ったりする。少なくとも数年は、そういうツリーが毎年飾られていたはずだ。
聖書も讃美歌の本も、クリスマスカードもいつも身近というより手元にあった。私は「主の祈り」を覚えていたし、寝る前にはいつも神様にお祈りして、その日のことを報告していた。イエスの生涯や死についても家族や親戚のことを知る以上によく知っていた。
もっともお祈りも誰に強制されたわけでもなく、日常的に何かキリスト教に関する習慣が家庭にあったわけでもなかったから、いつの間にか寝る前のお祈りもしなくなったし、いつからかツリーも飾られなくなり、毎年枕もとにおかれていたクリスマスプレゼントもなくなった。それを意識もしないほど、私はひとりでに成長し、家族の関係も変化して行った。
ぶっとんだ感覚
祖父の方は、長崎で代々続いた医者の家で、本人がしばしば「敏達天皇の後胤橘の諸兄」の血を引くとか、武田信玄に仕えた板坂卜斎の直系とか自慢する由緒ある家柄だった。もっとも、それを口にするときも、祖父はおごそかというよりも、いいきげんそうに笑みをふくんで、少し自分でも茶かして冗談ぽく言っていたような記憶があるので、楽しい事実ではあっても、それにすがっているという風はさらさらなかった気がする。むしろ天衣無縫でめちゃくちゃな腕白息子で、手のつけようもないから、ちゃんとした娘さんを嫁にもらおうということで、成績優秀で有名だった祖母が選ばれたのらしい。
しかしその「ちゃんとした娘さん」が、それこそ良家のお嬢さまではなく、親をなくした孤児で、当時としては普通ではない外国人の学校教育を受けていて、キリスト教の宣教師の弟子として各地を回った経歴もある少女を、いくら成績優秀で賢かったからと言って、嫁に迎えようという祖父の家庭の感覚が、今考えるとたいがい謎だ。私はこういう話は皆、母に聞いたのだが、幼いころだし、特に疑問も持たず問いただしもしなかったから、よっぽど祖父の野放図さが有名で、普通の家のお嬢さまは皆拒否したのか、当時の長崎ではキリスト教文化はそれなりに高い評価を受けていたのか、ともかくもう祖母がひたすら優秀だったか、祖父の親たちの感覚がどこか平気でぶっとんでいたのか、まったくわからない。ただ、今の私自身を考えても、実際に体験した家庭の雰囲気を考えても、何となく最後の可能性は少なくとも皆無ではなかったのではないかという判断を捨てきれない。
プライドと差別
祖父自身にも私にも、そういうところがあるのだが、自分や自分の家柄にものすごいプライドがある人間は、逆に人を差別しない。最近読んだ「ガリマールの家」という本の中で、フランスの大富豪はなかなか普通の人に会わず敷居が高いのにひきかえ、大貴族は驚くほどに気さくで開放的だという指摘を読んだが、それに通じるものかもしれない。自分や自分の家族以外の人間は皆クズだと思っていると、そのクズの中で、貴賤とか身分とかの選別をするのなんぞ、ちゃんちゃらおかしいという話になる。そういう感覚の人間たちにとっては、外国籍や出身地や職業や成績や外見で他者を差別し、自分の方が優秀ですとか純血ですとか魅力的ですとか、だからあなたによりふさわしいでしょうという発想や態度ほど、身の程知らずなものはない。何をとことんかん違いしてる、控えおろう、最低のゲスがと、顔には出さなくても内心で即刻判断するものだ。
ちょっとつけ加えておいた方がいいのだろうが、そういうプライドを持つ家や人間というのは、別に自分たち自身がそれほどに裕福でなくても優秀でなくても美しくなくても、そんな事実はあまり関係ないのである。ただもう自分たちが自分たちであるから価値があるので、他と比べたり、ランクのどこに自分が位置するかとかも、いっさい考えないのである。世間の評価も気にしていない。ただもう、自分や一族は、それ自体で価値があり、どんなものとも、かけがえはない、最高のものと自然に感じてゆらがない。だから自分たち以外の他者には徹底的に大らかで優しい一方、徹底的に無関心で冷たい。
祖父の家族もそうだったとすれば、大富豪のご令嬢でも、孤児の少女でも、うちの嫁にふさわしいかどうかという点ではまるっきり同等だという感覚も普通にあった可能性は充分にある。
田舎の賢者
まあそのへんのことは永遠にわからないだろう。ともあれ祖父の家庭は別にキリスト教ではなかったと思うが、何の宗教か宗派だったか私は知らない。わが家では普通に浄土真宗のしきたりで法事などはやっていたが、そもそも祖父の死までは法事らしいものもなく、祖父が縁もゆかりもない土地に突然気に入って住みついて病院を開業した時以来、ずっと世話をしてくれた近所のお百姓さんが、敬虔な仏教徒で浄土真宗だったので、そのままにその方にいろんなことをまかせていただけのような気がする。
その方もまた聡明で誠実な方だった。飄々としたユーモアと人生観を持っていて、母はしばしば、その人のことばや見解を、偉大な人のそれのように私に話して聞かせたものだ。「どんな道を通ったって、結論が同じならそれでいいんだ」とか。祖父の死後、その方は、お寺とわが家の仲介もずっとしてくれたが、もともとキリスト教の家だったから、とお寺にも説明して必要以上の関わりは持たずにすむようにしてくれたようだし、仏壇も仏事も特にすすめたりはしなかった。だからわが家には祖父母の死後もずっと仏壇はなく、押し入れの横の戸棚が、それ用に使われていた。私がどこかで買ってきた、金襴模様のようなはぎれの布を、母はその棚の上にかけていて、それを見た、その敬虔な仏教徒の方は、「これはいいなあ」と感心しておられたそうだ。私の家の怪しげな宗教生活をとりまく環境は、皆そのように暖かく大らかだった。
激怒する夏休み
母はまるでまじめに仏壇の世話をしていなかったし、人でも猫でも「生きている内に充分するだけのことをしたから後悔はない」と「生きてる内にけんかしていたのを、死んでから今さらちゃらちゃらできるものか」というのが口癖で、私はその二つが合わさったら無敵だなあと、あきれながらも何となく感心していた。そうは言っても、祖父が生きている時に建てた山の上の墓地の墓には、盆や暮れには母は一人で掃除に行っていたし、年をとるにつれて、そういうことも、お寺のご住職に来ていただいてお経をあげてもらう前に仏壇を片づけるのも、次第に苦になってきたらしく、八月が近くなると、就職して家を離れていた私に、しきりに帰って仏壇の掃除を手伝うように言ってくるようになった。
私の方は自分の仕事も研究も一番大変な、まさに修羅場のときだったから、夏休みは集中してまとまった仕事ができるかき入れ時で、母のその要請がしんそこうっとうしかった。そのころから今現在に至るまでずっと私は、何も知らない周囲の人から「夏休みがあっていいですねえ」「お休みでうらやましいですねえ」と言われると、相手をくびり殺したいぐらい腹が立つ。その時期こそが一番殺気立つ戦場だのに何をぬかすかと言いたいのを、耐えるだけでもへとへとになる。
腹立ちまぎれに私は近くの仏壇屋で安い小さな仏壇を買って、田舎の家に送ってやった。母はそれを座敷のすみにおいて、片づけが楽になったのか、前ほどやいやい言って来なくなった。以後ますます私は仏壇と墓の世話を母にまかせきりにして、盆にもぎりぎりにしか帰らなかった。
それでも、今、エアコンもないのに、庭の大きな木々と周囲の水田から吹き渡ってくる涼しい風の中、ご住職のあげる読経を、座敷の畳の上に母と二人並んで座って聞きながら、お布施の封筒や冷たいお茶やお菓子の皿は台所にきちんと準備してあったかなどと考えていた風景の中に、すっと戻って行ける。座敷に続く広い廊下と、朝日がいっぱいにさしこむ長い窓が、その向こうに広がる明るい庭の輝きが、ありありと目に浮かぶ。宇宙にただよう船のような、永遠に変わらない安らかな、ふしぎな時間。母とともに、今でもそこに水玉の中に浮かぶように存在していることが、楽々と私にはできる。
家族も少ない私の家の仏壇には位牌もほとんどなかったが、もともと小さい仏壇だったので、横に小さい机をおいて、仏具などをのせていた。そこに、前の戸棚の仏壇に入っていた木彫りの仏像も何となく、私は並べておいていた。
それはたしか、近くの村のどなたかに昔、祖父が彫ってもらった仏像らしかった。素人の方らしいのだが、どこから見ても遜色のない、きちんと立派な仏像の姿をしていた。しかしまだ入魂式はしていないのだと、母が言っていて、二人ともそれ以上どうするかは話したことがなかった。結局、母も亡くなって、田舎の家を売って荷物を運び出すまで、仏像はそのままだった。
家を買ってくれた友人に、まだ魂は入ってないらしいと私が話すと、不動産会社のオーナーでてきぱきと実行力に富んだ友人は、即座に「つまり芸術品やな」と名医のごとく診断した。そうだ芸術品なんだと変に安心して納得した私は、その後ネットで調べたら、魂を抜くのにもなかなか儀式が必要とわかったこともあって、結局そのまま、その友人に手伝ってもらって、芸術品の木像を、今の私の家に運び、仏間の一角に安置した。
十字架もほしくて
さてそうやって、今住んでいる二軒の家の一室に仏間らしきものを作り、叔母が遺した山ほどある極上の線香を日夜くゆらす一方で、もう一軒の家の方には、棟上げのときに来ていただいた神主さんからいただいたお札をまつった略式神棚に毎朝水を供えて手を合わせるようになった私は、しかしやっぱり、もともとキリスト教にあれだけなじんで、今でもクリスマスツリーは欠かさず飾る身としては、これではやはりまずいのではないか、キリスト教にあれほど関わった祖母だって、どこかにそういう方面にお参りする場所がほしいのではないかと、もういかにも日本的なのか、源氏物語の六条院じゃあるまいしみたいな発想で、新しい家の方の、ベッドの横にある置き床の上に、ものすごく適当に街の教会の売店で買ってきた白い小さなマリア像をおき、そこにも毎朝手を合わせることにした。昔誰かの書いた海外のSFで、ありとあらゆる魔物や精霊につきあって礼をつくしている内に、にっちもさっちもいかなくなる男の話が何かあったよななどと思い出しながら。
知り合いのアクセサリーの作家さんに、そのしょーもない事情も話して、そこの壁にかけるロザリオみたいな十字架のペンダントを作ってくれないかとお願いしたら、二つ返事で引き受けて下さったのだが、そこは芸術家のこととて、興が乗るまでそこそこ時間がかかったものだから、私はつい、街のデパートの店でスペインだかどこだかの十字架の飾り物をいくつか買ってしまった。それをマリア様の後ろの壁につけて間もなく、かの作家さんは、格調の高い、アクセサリーにも壁掛けにも使える苦心の作の、みごとなペンダントをこしらえて来て下さった。私はもちろん喜んでそれを買い、十字架の飾りの上につるした。その数年後、同じ作家の方が作った同じような、ちょっと変型の十字架のペンダントも気に入って買ってしまって、並べてかけているので、まるで映画「処刑人」の兄弟のアパートの壁みたいに見えなくもない。
なつかしいキリスト
そこはもともと、置き床の上に、田舎の家から持ってきた、巨大な絵を二つ並べておいてある間の、狭い空間である。隠れキリシタン風で、それもいいやと思っていた。そうこうする内、田舎から運んだ荷物の中から、私が子どものときに手元において大事にしていたキリストの小さい画像が見つかった。
もともとは母か叔母のものだったのかもしれない。キリストは正面向きではなく、羊飼いの姿をしていて、そのうつむき加減の顔が幼い私は大好きだった。
中学生のころから、私は田舎の家の二階にある、窓もない小さな部屋を自分のものにしていたのだが、暗くて狭いから、昼間は隣りの十八畳もあるお座敷で勉強したり、友だちと遊んだりしていた。たいそう立派な床の間がついていて、私はその一角の、違い棚のある部分に本棚をおいて、自分のコーナーにしてくつろいでいたが、そこの緑色の砂の立派な壁に、長いこと、このキリストの絵をブロマイドのようにはっていたものだ。
なつかしいその絵を、適当な額に入れて、私はマリア像(つい二つに増えていた)と壁の十字架の間においた。
嘘でしょう?
さてと、話はここからである(なげえよ、と言われそうだが、あとはすぐにすむ…はずだ)。
私はその画像のイエスの顔を、はっきりと覚えているつもりだった。それこそ目撃者のモンタージュ写真を作るから協力して下さいと言われたら、すぐに引き受けられるほど、その穏やかで安らいだ、気品ある美しい顔を、ありありと思い出すことができた。あまりあせってさがさなかったのも、記憶の中からそれが消えることはないという、自信があったからである。
それが実際の画像を見たら、本当に同じもの?と目をこすったほど、キリストの顔は、よくある普通の若者だった。じっくりと見ると俳優のジェイク・ギレンホールあたりに似ていないこともないから、美しい顔にはちがいないが、街や大学で見る留学生の中にもいくらでもいそうな顔である。これといった特徴さえもあまりない。
単純に、ただ驚いた。私の目に今もやきついている、あのキリストの顔は、いったいどこに行ったのだろう? どこにもいないわけはない、消えたはずがない、と私の中の何かが今もしつこくつぶやいている。
そして、芸術品の仏像の方だが、こちらはあれだけ長いこと身近において暮らしていながら、明るい座敷の中だったのに、私はこの仏像のお顔を、一度もまじまじ見たことはなかったのに、今さらながら気がついた。
今いる家の仏間に安置して、狭い部屋でもあり、初めてよくよくながめると、全体のお姿はどこかのお寺においてもおかしくない、ちゃんとしたものだが、そのお顔は決して一般の仏像ではない。
よく言われることだが、仏の里として知られる国東半島のあちこちにある、たくさんの仏像は、不動明王でも大日如来でも、京都のお寺のものとは異なり、まったくの村人の顔である(熊野の磨崖仏の大日如来のお顔だけはわりとしっかり都会風な気がする)。
この仏像もまさにそれだ。本当に、田舎のわが家の回りにいた、お百姓さんたちの顔なのだ。
失望したとか、そんな空恐ろしいことは言わない。ただ、魂が入っていようがいまいが、私は立派な仏像を一つ、仏間に持って来た気がしていた。一応仏の教えを伝える、それなりの専門的な使者のような存在を。
それが、見慣れた近所のおじさんだったような、衝撃がある。
きっとわかって下さるわ
その後、これを書こうとネットで仏像の正確な名称を調べようとしたら、持ち物や印もどことなく基準に合わないし、ますますおじさん度が深まった。
キリストの画像の方は、大きな写真でしっかり顔をとろうとしても、フラッシュが光ってうまく行かず、人に見られるのをいやがられている感がある。
まあそれはそれで悪くないかと、普通の若者の顔のキリストと、おじさんの顔の仏像に、私は毎朝手を合わせている。
私の失望やとまどいや、ちょっと軽んじているこの気分に、二人は気づいているのだろうか。かりにも神で仏なら気づいていないはずはあるまい。けれどもまた、かりにも神や仏なら、少し傷ついたとしても、笑って、あきれて、最終的にはわかって許してくれるだろう。それを私が知っていることを、二人も知っているだろう。
そのへんにいる若者のように。どこにでもいるおじさんのように。(2017.6.25.)