(20)絵画をめぐる伝説
どこの家でも、昔から何度も語られて記憶されている伝説が、ひとつやふたつはあると思う。私の場合、語り手はいつも母で、幼い私は時に何度もせがんで同じ話をさせたりした。
しかし実際には、はっきりと覚えているものは少なく、結局一番細かく覚えているのは、田舎のわが家にかかっていた、二枚の油絵の話である。
ところで私はいつからか、けっこうあちこちの店で絵画を買うようになった。と言っても主には二つのギャラリーで二人の作家の作品に集中している。田舎の家や、一時所有していた叔母の遺したマンションを手っ取り早く模様替えするのに、絵をかけるのが一番簡単だったからだが、その家を次々たたんで人手に渡すにつれて、絵も人にあげたり、自分の今の狭い家に所狭しとかけたりしている。
その二つのギャラリーで、絵をいろいろと見せてもらって目の保養をしているとき、当然ながらどちらの主も、季節や気分によって絵をかけかえることを前提に話をされる。ところが私は基本的にはそれができない。いったん、どこかの壁にかけたら半永久的に、もうその絵はそこにあるものとして扱うのが好きだ。ほとんど壁画の感覚である。
そうなったのは、多分、子どものころに田舎の大きな家のあちこちにかかっていた、写真や絵がずっとそこから動かされることもなく、まるで窓の外の山のようにそこに存在していたからだろう。
思えば家具なども昔は皆そうだった。学生時代のアパート以来、かなりずっと部屋の模様替えをし続けていた私だが、最終的にはやはり家具もオデュセウスの寝台や、ピーターパンのテーブルのように、不動の位置をしめている家をめざしているのかもしれない。
田舎の実家にあった二枚の油絵の話に戻る。その一枚は風景画で、家族がいつも食事をする、いろりの部屋に続く和室の、押し入れの上の長押にかかっていた。左側に山があり、そこに右から海が大きく食いこんで湾になっていた。左の手前に松の木があり、絵の上半分に伸びている。正面に近い左側の湾の向こうにそびえた黒い山のかたちは、ちょっと特徴があって、大分の高崎山らしかった。山のふもとの海上には白い船の帆がぽつんと小さく見えていた。そのへんのどこかに小さい赤い色もあった気がするのだが、船の一部だったのだろうか。はっきりしない。
もう一枚の絵は、住宅部分と隣り合う、祖父の診療所の待合室の壁にかかっていた。そこには四角い長い火鉢があって冬でも暖かく、何となく快い場所だった印象がある。
一方の壁に太いしっかりした脚の、安定感がある、つやつや光る茶色の木製のベンチがおかれていて、絵は、その上の天井近い壁にかかっていた。こちらは静物画だった。くすんだ緑色をした大きなりんごが一番手前にあって、その向こうに何か他の果物があった。こちらは風景画とちがって、私がふだんの生活の中で見ている時間は少なかったが、それでもその部屋の一部のように欠かせないものとして私の目には焼きついていた。
母が、この絵について話したのは、次のようなことである。
「この風景画を、おじいちゃんは、ある絵描きから頼みこまれて買ったのだが、見ての通りひどい出来で、長い年月、誰もほめる人はいなかった。おじいちゃんは、それですっかりくさっていたのだが、十年ほどして、またある絵描きがやって来て、絵を買ってほしいと熱心に頼んだ。
おじいちゃんは、根負けして、『いやー、それが、わしはもう十年ほど前に、ある絵描きから頼まれて、風景画を買ったのだが、誰もが見るたびに、よくない、さっぱりだめだというし、もうわしは絵を買うのはこりごりだと思って、二度と買わないことにしたのだ』と打ち明けた。すると絵描きが、ぜひ一度その絵を見たいというので、おじいちゃんは、部屋に案内して、この絵を見せた。そうしたら絵描きは見るなり、『あっ、これは私が描いた絵です』と言った。
おじいちゃんが返事に困っていると、絵描きは『たしかに下手な絵ですが、私もあれから一生懸命努力して、これよりはいい絵を描けるようになりましたから』と熱心に言うので、おじいちゃんは気の毒でもあるし、結局また、その絵描きから絵を買った。それが、あの腐ったみたいな果物の絵なのさ」
母は音楽も得意だったし、絵も上手だった。「絵がうまいというのは、服装とか建築とか、すべての分野の基本になる。色彩のセンスがないと、何をしてもだめだ」と決めつけていた。ミレーが最高に好きだったから古風で陳腐な好みのようだが、ピカソなどの抽象画は毛嫌いしたわりに、ゴッホやダリはなぜか好きだったりなどと、一貫性はないけれど、とにかく好みがはっきりして、何でもびしばし断定的に評価した。
その母の目から見て、下手な絵と言うのならそうなのだろうと、母を無条件に崇拝していた子どもの私はあっさり信じた。二枚の絵が実際にどれほど箸にも棒にもかからないものだったのか、本当のところはわからない。祖父母の死後、いつの間にか二枚の絵はどこかに消えた。そのころ訪れて、いろんなものを持って行った骨董屋がいたようで、その人がそれも持ち出したのかもしれない。だから、今の私の目で見て、それを評価することはもう不可能だ。
子どもの私は、その絵が下手でも上手でも、特にかまわなかったのだと思う。母は美を愛し面食いでもあって、娘の私のことも団子鼻でみっともないといつも言っていた。かわいいなどとは口にしたこともなかった。それでも私は、母にそう評価されていることが、私にとって何の不利益ももたらさないことを知っていた。人でも物でも母は容赦なく批評したが、だからと言ってそれは拒絶も排除も嫌悪もまったく意味しなかったのである。
それは他の家族もそうで、たとえばその油絵が下手だと皆が認めていても、それをそのまま何十年もそこにかけておくような、無気力なのか鷹揚なのかわからない、いいかげんさが常にあった。あるいは、そういうことを細かく気にして、不快なものを即処分するのは、あまり品のいいことではないという美学もあったのかもしれない。好きなものだけ存在を許す、嫌いなものはそばにおかない、という厳密さや潔癖さを、どことなく納得せず、何となく遠ざけていた家だった。
私はただ、母の話した物語、その中に登場する絵画として、その二枚の絵をながめていた。不名誉な役割であったにせよ、まぎれもなく、その絵画たちには、歴史があり伝説があったのだ。それはやはり、子どもにとって、ひとつの魅力だった。
あの絵が消えてしまっても、母が話した物語は消えない。登場する祖父と絵描きの、それぞれにただよう人のよさや、無邪気さも、あの絵の記憶とともに私の中には残る。そして、結婚もせず子どももいない、一人暮らしの私だけれど、それでも家のあちこちに絵画をかける時、幼い子どもがいつもそれを見て、幼時の家や生活の記憶の一部としてそれが埋めこまれ、老いてもあざやかによみがえるということを心のどこかで自然に配慮し意識している。まるで滅びる星の上で生まれる幻想のように、それは力強くも明るく、私の生き方をどこかで支える柱である。
今、私が暮らす二軒の家にかかる絵のほとんどは、私が自分で選び、買ったものだ。そうでない二枚をここでは紹介しておこう。
どちらも、新しい小さい方の家にある。この家を建てて、まだ家具も絵もほとんどない時、私はまず、この二つの絵を、家の象徴か魂のように、ここにおくことを決めた。
大きな赤い花の絵は、立派な額に入っていて重く、家を建てた大工さんがワイヤー二本でしっかりつるしてくれている。これは母が、地元でいっしょにいろんな活動をやっていた共産党の議員さんから誘われて、そういう民主的な人たちの作品を展示していた会場に行って、自分で選んで買って来た絵だ。もちろん多分有名な人でも何でもない。しかし、前にも言ったように、母の審美眼や鑑識眼は常にゆらぐことなく確信に満ちており、その母が選んで買ったということは、私には著名な鑑定家や美術商のお墨付きと同様の価値を持つ。
絵の値段は聞かなかった。大きな油絵だし、そこそこの値はしたのだろう。母はいつも、共産党の人たちは本当につましいと、驚いたりあきれたりしていたから、その展示会では豪気な方の客だったのかもしれない。そういう母自身、相当につましい生活をしていたが、使う時には使うという精神だったし、私は自分の給料から、それなりの額を送金していたので、そのくらいの買い物は不自由しなかったはずである。
リフォームしても、すぐに散らかしてごみためのようにしてしまった、古い家のリビング兼台所の壁に、母はずっとその絵をかけていた。そのあと、更に台所をリフォームし、隣りの土地に新しく建てた家に母が移ったとき、この絵も移動させたはずだが、なぜか私にはその記憶が欠落している。私が自分の新しい小さな家を建てて、母が田舎から引き上げるまで、この絵はいったいどこにかけていたのだったか。多分テレビをおいていた居間の壁しかないと思うのだが、本当に覚えていない。
記憶と言えば、この花の絵を買って何年かしたころ、また同じような展覧会があるというので、帰省していた私は母と車で出かけた。だが会場についてもその気配はなく、受け付けかどこかで聞いたら、とっくに終わっていて、母が日をまちがえていたのだった。あらまあと母はけろけろ笑っていたが、私は母のもともとのうかつさか、認知症のはじまりかと、何だか不安で不快で、不機嫌なまま帰途についた。だから、どういう会場のどういう雰囲気の中で、母がこの絵を選び買ったかも、想像する機会はないままだった。
もうひとつの絵は、これまたどうということない花の絵で、とても小さい。これは母に昔英語を習っていた近所の子どもの一人だった女性が、成長して外国旅行に行ったとき、お土産に買ってきてくれたものである。由来も価値も作家の名も、これまた何ひとつわからない。しかし多分ヨーロッパだと思うが、そこからのお土産に、あくまで田舎のおばさんである母にこんな絵を買ってきてくれるとは、その女性のセンスもうれしいし、その人にそんなお土産を選ばせた母のイメージもなかなかなものかもしれない。
この絵は白いキャンバスのふちがついていたと思うが、額にも入れずにむぞうさに、トイレの前の暗い廊下にずっとかけられていた。と言っても、そこは祖父の大切にしていたキジのはく製や、それなりの芸術写真の額がかけられていた場所で、そんなに粗末にされていたわけではない。むしろ薄暗くて涼しかった分、絵の保存にはよかっただろう。
私はその古い家を片づけている時、少しほこりをかぶって汚れているこの絵を、立派にしてやろうと思って、街の額縁屋に持って行った。そして、多分一万か二万かけて金色がかった額にきれいに入れてもらった。今はこの絵は私がパソコンで仕事をする横の、窓際の壁にかかっている。その後、いろんな絵が田舎の家から引き上げられて、小さな家の壁面いっぱいに飾られたので、釣り合いの点ではいささかどうかというところもあるが、それなりに、そこになじんでいる。
鮮やかに赤い大きな花の絵の方は、さすが母が好んで選んだだけあって、堂々と明るく力強い。壁の一角でいつも落ちついてたのもしげだ。一回り小さい絵の方はそれに比べると地味で目立たないが、その分邪魔にならない。暗い静かなヨーロッパのどこかの町から海を渡ってやってきた、さりげない風格もある。
どちらの絵も、平凡で古めかしい。昔のちょっと知的で高級な婦人雑誌の表紙などに、いくらでもありそうな絵だ。だが、新しい家の、ごちゃごちゃしたおしゃれで風変わりなものの中に、こういう二枚の絵があるのは、気持ちを安定させてくれる。結婚式で、花嫁が古いものを何か身に着けたらよいとされる習慣のように、この家のあるよりどころになっているのかもしれない。(2017.7.3.)