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(31)額縁とカレンダー

カレンダーって家庭内で案外トラブルの種になる気がするけど、うちだけだろうか。
私が中学校の時からつけ始めた日記の最初のあたりに、祖父が「まだ去年のカレンダーをはってる」と怒って、祖母と母がちゃんとはっていた新しいカレンダーを破ったので、二人が祖父を陰でけなしていたという記事があるし、晩年の母も、私が一生懸命見つけて寝室にはってやっていた、かわいい外国製の動物のカレンダーを、めくりあげて前月の裏を次の月にするのに気がつかず破いてしまって、私を烈火のごとく怒らせたことがあった。

祖父は田舎の村医者で、そのカレンダーも、医院の待合室にはる分だったと記憶している。仕事がら、製薬会社などから毎年きれいなカレンダーが送って来ていて、それもその一つだったのだろう。
外見はとことん陽気な太った高校生だったのに、変に社会的関心があり、厭世的で悲観的でもあった私は毎年送られてくる、そんなきれいなカレンダーの数々を見ては、果して一年もつのかしら、6月や10月あたりに核戦争でふっとばされるんじゃないかしらと漠然とした不安を感じたりしていた。
叔母と叔父も医者で、病院の規模が大きかった分、さらにたくさんの美しいカレンダーをいろんなところからもらって、田舎のわが家にも持って来てくれていた。大学生になり一人暮らしを始めた私も、しばらくはずっと叔母にもらったカレンダーを部屋にかけていた。
あのころ、他の家ではカレンダーはどうしていたのだろう。売ったり買ったりということがあまりなかった気もするのだが、買っていた家もあるのだろうか。

いつからか、さまざまな贅をこらしたカレンダーが書店やデパートでコーナーまで作って売り出されるようになった。自分の家を建て、田舎の家や叔母の遺したマンションも管理するようになってからは、それらの家を飾るインテリアの一つとして、私もけっこうぜいたくに、大小のきれいなカレンダーを買うようになった。祖父や叔母が製薬会社からもらっていたように、私は仕事がら出版社や書店から立派なカレンダーをいただくことも多く、それらはさすがに趣味がよく美しかったが、思えばあれが私のバブル期というものだったろうか、それとは別に年末にはいろんなデザインのカレンダーを買って、あちこちの部屋にかけるのが欠かせない年間行事になっていた。
次々と家を人に譲ったり売ったりして行く中、かける場所が減ったこともあって、今の私は昔に比べるとほとんどと言っていいほどカレンダーを買わなくなった。それには、他にも理由がある。
今、家の片づけをしていて案外大量にたまって始末に困るのが、実はそのそこそこ豪華なカレンダー類なのだ。もともと、たくさんの中から厳選して、好みにあったものを買うので、もったいなくてとても捨てられない。せめてあまり増やすまい、と自然と自重することにもなった。

なじみの店で20年近く前から買い出したのがずっと続いているのは、今ではすっかり有名になった橋本不二子さんという方の花の絵のシリーズで、大小いろいろどれもそれなりの良さがあって、つい捨てられないでとっておいてしまう。
少し前からは黒井健さんという方の風景画が、私の田舎の家がある周辺の風景そのままで、なつかしく美しく、もうとても捨てるどころではない。母のいた施設の部屋にはずっとこのシリーズをかけていて、スタッフの方が毎月私が行く前に、めくっていて下さったのも、今では楽しい思い出だ。
一番最近では、家や部屋を楽し気に描くピーター・マックナイトという人のカレンダーにはまり、これもつい、毎年買い、やっぱり毎年捨てられない。
私の好みはあまり一般的ではないらしく、黒井さんのカレンダーは最初は大きいのもあったのに、今では小型のしかないし、マックナイトさんのは二か月で一枚の絵になっている。おかげであまり増えないのがありがたいが、それでも次第にたまって行く。

その対極にあって悩ましいのが、ご近所の商店からいただく、味もそっけもない大きな日付だけの実用一点張りのカレンダーだ。
こちらはまったくどこにでもある、何の変哲もない文字だけのものだから、毎月破ったそばからすぐ捨てられる。そして、この大きな文字は私の年齢になると、部屋の遠くからでもよく見えるのがありがたいし、何の飾りも工夫もない泥臭さも、なかなか潔くて好ましい。
私はもともと、豪華なカレンダーを買いまくっていたころでも、自分の机のそばや前には、無機質で瀟洒でスマートな、簡素なイラストと文字だけのデザインのものを選んでいた。要素としてはそれと同様でまったく目的にかなうのだが、しかしやっぱり、それなりにおしゃれなもので固めている部屋の中に、これをどーんとはってしまうと、あまりにも違和感と存在感がありすぎる。
友人知人に、その手のカレンダーをもらったらどうしているか聞いてみると、全部あっさりと処分してしまっている人も多いようだった。しかしこういったカレンダーでも、むざむざ捨ててしまいたくはない。何とか生かして使いこなさなくては敗北だという、誰と戦ってるんだという奇妙な意地が私にはある。

頭のすみに、その悩みを抱えたままで過ごしていたある時、福岡の親不孝通りに近い「紙技」という和紙の店で、小物を物色していて、ずらりと並んだ引き出しの中にぎっしり重なって入っている、色も模様も材質もさまざまな和紙の中に、それまでなかった新しい、紅色に鈍い金色でトンボが描かれた一枚を見つけた。ネパールかどこかそのあたりから来た紙だということで、気に入ったので買うことにした。
その時点ではっきり考えていたかどうかは自分でもわからない。もしかしたらうまく行くかも、という予感ぐらいはあったかもしれない。帰ってすぐに私はドアの一つにその和紙をはり、その上からくだんの泥臭い実用本位のカレンダーをはりつけてみた。
やったやんと快哉を叫んだほど、しっくりはまった。太く味気ない日付の文字までが、紅と金の和紙のごつさにマッチしている。
すっかり気に入った私は、同種のカレンダーを他の和紙で試してみた。それもまた、なかなかいけた。以来数年、この種のカレンダーの位置はここに決まっているし、他のいくつかも同じようにして使っている。下を画びょうでとめているので、毎回はり直すと和紙が傷むため、画びょうは動かさずにカレンダーの紙を破ってはずすことにしている。

残る問題は、きれいな方のカレンダーをどう保存するかだ。
一番膨大に残っている橋本さんの花の絵は、書類を入れた段ボール箱にはったり、机の引き出しの底にしいたりもした。しかしそのくらいでは焼け石に水で、やっぱり一番いいのは、重ねてどこかにおいておき、気の向いた一部を額縁に入れて飾ってやって、とっかえひっかえすることだとしか思えなかった。
言うはやすし行うは難しだ。わが家はもともと作りつけの本棚が多くて壁というものがほとんどない上に、すでに手放したいろんな家から集まってきた絵画の額があらゆるところにかかっている。カレンダーから切り取った絵を入れた額をかける余地など、どこにもない。
そうは言っても、それなりに高額な立派な絵を、未来永劫変化しない定位置において空気か風景のようにながめる一方、駄菓子やジャンクフードをつまむ気分で、雑誌やカレンダーから切り取った絵を安っぽくそのへんに、直接はったり、適当な額に入れてかけたりするのも、また味わいたい楽しみだ。ただし変にやると、えらいことにもなりそうだ。
私は奥まった一室の壁の天井近くには、母の手芸の花や人物の絵、自分の子どものころの下手な水彩画などをかけている。そこはそういう雰囲気にして、押し入れの板戸には、昔の雑誌の絵の切り抜きなどを直接はっている。その画びょうも新しいのでなく古びたものにしたいと、大学の掲示板のさびついたのを、ひそかに持って行った新しいのと交換して奪って来たこともあって、たまたま居合わせた同僚は賢明な人で何も言わなかったが内心どう思っていたことやら。
だから、古いのや新しいのや額はいくつかそろえているが、まだ絵を入れてかけるには至っておらず、それなりに気分がのるのを待っている。いったいどこの大聖堂か美術館の装飾をするつもりなんだろうかと、自分で自分にあきれながら。

その前哨戦というわけではないが、たまたまちょっと実行した場所は田舎の家の洗面所だった。
廊下の突き当りにある小さい浴室の手前の洗面所で、紫がかった花模様のとりまく浴槽が母も私も大好きで、本来の大きな浴室以上に愛用していた風呂場である。
そこの壁の天井近くに割りと適当に二つの小さい額をかけた。カレンダーではなかったが、そのへんにあった古い絵葉書とダイレクトメールを入れて、その内に中身を交換しようと思いつつ、そのままにしていた。
人に借りていただくことになって荷物を引き払うとき、何となくその風呂場の記念のつもりで、ひょいとはずして持って来た。
私の今いる小さい家の風呂場に接した洗面所は、家の中では珍しく壁には何の絵もかかっていない。湿気で傷むかもしれないと最初のころ用心していたのもある。
まあ同じ風呂場だし、と二つの絵をそこにかけた。まったくたまたまだったのだが、くすんだ灰色の額縁は私が鏡や棚のふちにくっつけていたフェイクのつる草と色が同系色で、もう一方の漆黒の額に緑がかったダイレクトメールの入った方は、入浴中に時間を見るためにくっつけた、鮮やかすぎる緑と黒の防水時計とこれまた奇妙にうまくつりあった。

安っぽい絵を適当に額に入れて、折々に楽しむという作戦は成功するという、幸先のいい出来事だと、私は見あげて満足にひたっているのだが、ただ少し問題なのは、これだけ長く同じ場所にかかって田舎の風呂場の思い出がしみついてしまうと、最初はまったくどうでもよかったこの二つの額の中身が、それなりに代えがたい気がしてきて、どうやらもうずっとこのままになりそうなことだ。
そう言えば奥まった一室の板戸にさびた画びょうで適当にはりつけた絵の数々も、結局もう何年もずっとそのままだしなあ。(2017.12.8.)

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カツジ猫