(4)熊本の掃除機
(掃除機・熊本・劇団四季)
母の特技
私の母は九十七歳になる。
もう今は無理かもしれないが、少し前までよく自慢していたのは、「他の皆はなぜか、ヤクルトのふたをうまく開けられない。なぜだろう、あんな簡単なのに」ということだった。実は私も、あのふたをあけるのにはちょくちょく失敗して、かんしゃくを起こしつつ破ったりするので、母の才能にはひそかに感服し羨望していた(笑)。
昔、田舎の家で初めて掃除機を使い始めたころ、同じように母がよく言っていたのは、祖母が掃除機を動かす時に、いちいち持ち上げることがあるのが解せないということで、自分は掃除機のヘッドを床からまったく離さずに掃除ができるのに、ということだった。ヤクルトのふたの件もそうだが、自慢というより、なぜそんなことが他人にはできないのかと純然とふしぎがっている感じで、考えようではなおのこと、できない人間をへこませる。これまた私もどうかすると、掃除機を移動させるとき、持ち上げてしまうことがあり、そのたびに母の「何でそんな無駄なことをするのだろう、床につけたまま移動させれば無駄がないし、そういう風に作られているのに」というまなざしを虚空に感じて、そこはかとなく、びびる。
そんな思い出があるということは、田舎の家で使われないまま古びてしまった洗濯機とちがって、掃除機は一応使われていた時期があったということだ。それでも、そんなに長い間ではなく、ほうきが活躍していた期間がずっと長かった。私が幼いころは、祖母も母も、ほこりを吸いつけるために、使ったあとのお茶の葉を畳の上にばらまいて、それからほうきで庭にはき出していた記憶がある。私自身は掃除も料理も家事というものはまったくしないで育ったので、男性並みかそれ以下に、そういうことには携わらず、いつも見ていただけだった。
大学に入って一人暮らしを始めてからも、掃除機をいつ買ったかは記憶がない。炊飯器、昔の呼び名では電気釜を買った日のことはまだ何となく覚えているが、掃除機のことはまったく印象に残っておらず、それにまつわるどんな思い出もない。
初めて記憶に登場するのは、最初に就職した熊本の借家で使った掃除機だ。それを、かれこれ四十年後のつい最近、私は処分したから、相当長いつきあいだった。
熊本の町
熊本で借りた家は、水前寺公園のすぐ裏で、木が多い庭に囲まれた大きなお宅の、多分いずれ隠居所のつもりで建てられた庭の一隅の小さな離れだった。落ちついた上品なたたずまいの建物で、職場や町の快適さとともに私はとても気に入っていた。しかしどうやって、そこを見つけたのかが、これまた記憶にない。その前の年だったかに飼い始めて福岡から連れて行った、初代猫のきじ猫おゆきさんとともに、私はそこで二年過ごした。その後名古屋に就職したから短い滞在だったが、熊本にいた間はずっとそこにいたことになる。初めて自転車に乗れるようになったのも、その家に近い公園で、夜一人で練習して、やっと気がついたら空を切って走っていたとき、その少し前に熊本の劇場で見た劇団四季の「エクウス」(初々しい市村正親が主役の少年を演じていた。滝田栄がカッコいい馬だった)で、馬好きの少年が夜にこっそり厩舎の馬を乗りこなす場面を連想した。
もしかしたら、そこで買って使ったその掃除機が私の最初の掃除機だったかもしれない。覚えているのは、私にその職場を紹介してくれた大学の女性教授が、「ペットがいるなら掃除機は絶対に買わなくちゃ」と忠告したので私も買う気になったということだ。ペットの毛を吸い取るのに適した付属品のヘッドも買った。ワインレッドのそこそこ上等の品だった。
同じころ、横長で奥行きの狭い、ちょうどその当時行ったヘミングウェイかヘッセだったか(覚えておけよ自分)の展覧会で、作家が使っていたのと少し似ていた机を買った、その家具店やその通りは漠然と覚えているのに、掃除機を買った店は、これまた何の記憶もない。
名古屋へ、そして福岡へ
そんなに掃除機が長持ちしたのも、たしかにていねいに使ったこともあるが、そもそも私があまり掃除をしなかったから、酷使とはほど遠い状態で温存したということもある。掃除機はそのまま私といっしょに、名古屋の新しい小さなアパートに行った。名古屋にいた数年の間に私は三度も転居したので、その都度掃除機は岐阜の山すその一軒家や、名古屋の下町の長屋のような二階建ての家に移って、そこでずっと働いていた。やがて福岡に戻って、停年まで勤めた大学の近くに家を借り、その後、自分の初めての家を買ったが、掃除機だけはいつも同じだった。
ワインレッドの胴体にもいつか小さい傷が無数についたが、故障もせずに仕事をしていた。当時、研究会をしていた主婦の方の一人が、「掃除機はどうしてもすぐにコードが巻き取れなくなる。それが最初の故障だ」と言われていたのが何となく記憶に残って、いつまでも勢いよく最後までくるくるぴしゃんと本体におさまるコードに、私は何となく「まだまだおまえも大丈夫だね」と思っていた。
とはいえ、ものに感情移入しがちな私にしては、この掃除機はただの掃除機で、さほど愛着もなかったのは、やはり私があまり掃除好きではなかったからだろう。
ただ、初めて買って住んだ家が三十年以上たって、それなりに古びて、いろいろあって、その前の空き地に小さい新しい家を建てたとき、そこで使う掃除機に、私は田舎の家で買っていた、いくつかの新しい掃除機ではなく、一番古い、昔からのこの掃除機を選んだ。多分そろそろ寿命だろうから、最後まで使うには、この新しい家でと何となく思ったのだろう。
廊下のはしのクローゼットの広い下段にストーブといっしょに入れて、時々引っぱり出して使った。小さい家で、まだ家具も少なく、家のまん中の壁のコンセントにつなぐと、家じゅうの掃除ができるのもうれしく、叔母の遺した上等だが床からの空間がやたらと狭いベッドでも、ヘッドを横にすればベッドの下にしっかり入って、ほこりを吸ってくれるのも思いがけない喜びだった。新しい家ができて五年間、次第に古びて来る間、掃除機はせっせと今思えば最後のご奉公をしてくれた。
突然の別れ
なぜ壊れたのかは、今もってわからない。収納場所を家の奥の別のクローゼットの、狭い棚の下に変えたので、引っぱり出すとき、周囲の衣裳かんにがたがたあたったのが悪かったのか、ある日まったく突然にふたがきちんと閉まらなくなった。修理に持って行くにしてもあまりに古すぎるからと、ためらっている内に、いきなり吸引力も低下した。どうやらもうおしまいらしいとあきらめて、処分することにした。名残り惜しくてつい、花をバックに写真を撮った。特に大事にしていたわけでも愛着があったわけでもなかったのに、そうしてみると、あらためて、この掃除機が私の生活の中で、風景の一部のように、言ってみれば毎日窓から見える山のように、あって当然のなじんだものになっていたのに気がついた。
新しいかわりの掃除機を近所の量販店で買う時に、ひきとってもらったのか、燃えないごみの収集日に持って行って出したのか、これまた私は覚えていない。けっこう最近のことなのに、どうも私はこの掃除機に関しては記憶が欠落しがちである。覚えているのは、ただ最後まで、コードが完璧にくるくるきちんと巻き取れたことだ。もしかしたら、それがつらくて、それ以上記憶するのを私は自分に禁じたのかもしれない。
消えて行くもの
熊本には友人も知人も多かったが、さすがに長い年月を経ると、もうつきあいはほとんどない。先日の大きな地震で被害を受けた街並みをニュースで見ても、昔の記憶はよみがえらない。薄暗くあたたかい感じのアーケード街の映画館でよく映画を見た。熊本のお客さんはにぎやかに、よく笑った。何軒かあった本屋は皆みごとな品ぞろえで、図書館のように勉強できたし楽しめた。その後住んだ名古屋の街も、いろいろ魅力的で好きだったが、映画館の観客が今思えば現在と同じように、反応がなくて静かなこと、街の本屋が数は多いが、どこもありふれた本しかないことに、移住した当初、私は本当にショックを受けた。
あの映画館も、あの本屋もまだあったのだろうか。もうなくなっていたのだろうか。猫と私が暮らした小さな家や、木々の茂った庭や、自転車の練習をした公園はどうなったのだろう。母家におられたご夫婦や品のいいおばあさんや元気な男の子たちは、どうしているのか。
きじ猫のおゆきさんは二十年以上前に十七歳の高齢で天寿をまっとうした。自転車は熊本を去るとき、同僚に譲った。横長の机は先日家を片づける時、隣家のご主人が引き取って下さった。あの掃除機と同じ時代を生きたものは、もう私の周囲にはひとつもないと言っていい。
かわりに買った新しい銀色の掃除機は、スマートでよく働く。多分、吸引力も強い。電力の消費量もきっとけたちがいに少ないエコ運転とかで、勝手に強弱を選んでちかちか点灯する。ただ、ヘッドの部分は少しだけだが高すぎて、ベッドの下には入らない。ほうきでほこりをかき出すたびに、ぺたんと腹ばいになるようにして、狭い空間にもぐりこんで行っていた、ワインレッドのヘッドがつい目に浮かぶ。(2016.4.20.)