(51)天国が多すぎる
私が今住んでいる二軒の家の古い方は、かれこれ四十年近く前に、ここに仕事が決まって引っ越してきてから、しばらくして買ったものだ。それまで数か月は、近くの一軒家を借りていて、ここもなかなかいい家だった。すぐ近くなのに、道から少し奥まったところにあるため、わざわざ行ってみることもなく、まだそのままかどうなのか、四十年間たしかめてもいないが、今でもときどき夢に出て来る。
建て売りの平屋を買ったのだが、あちこち壁を作り直したりして、半分新築のようだった。それから何年たったころか、家の横に少し増築して、二部屋を作り、その上に一部屋だけの二階をつけた。階段を上ったすぐわきに、寝台のような台を作ってもらったのだが、そのころはまだ自分のイメージをきちんと伝えることができなくて、大工さんは寝台に床板のような化粧板を張って、それはどうしてもいやだったので、普通の木に張り替えてもらった。大工さんはかなり不機嫌で、化粧板をばりばりはがしていた。おだやかな棟梁は気をつかって、自分でかなり直してくれていたようだ。いい方だったが、その後まもなく病気で亡くなり、別の工事を頼もうと連絡した私はびっくりした。奥さまは、「本当にあっという間で、私はこれから看病しようと覚悟を決めていたのに」というようなことをおっしゃっておられた。
その二階には、作りつけの本棚を周囲にずらりと回して本を詰め、小さい机をおいて、夜はその寝台に寝ていた。窓からは空しか見えず、風が吹き通すとまるで船に乗っているようだった。私が大好きだった金色と白の猫のキャラメルは、家の中のどこにいても私が階段を上りはじめると、かけつけて来て、私を追い抜いて稲妻のように上まで上り、どうだというように私を見下ろすのが癖だった。
寝台のはしに私は小さい楕円形の、黒いふちどりのある白いテーブルをおいていた。朝、私が目をさますと、キャラメルがよくそのテーブルの上から私を見下ろしていた。私は手をのばして彼をなでながら、こんな最高の幸せがいつまでも続くわけはないと、妙な悲しみを味わっていた。
キャラメルは結局、エイズと白血病で八歳の若さで死んだ。七キロもあった大きな身体が最後は二キロまでやせて、猫の敷物か板のように平たくなっていたが、なぜか毛皮の美しさは最後まで変わらず、舶来製品のようないい香りもそのままだった。私の腕の中で死んで、丸まったかたちのまま、次第に固くなっていった身体の中で、しっぽだけはいつまでもやわらかく、抱きあげると生きていたときと同じに左右にゆれた。
最初に彼がやせて小さくなってきたのに気づいたのは、その寝台の上でふとんの中にいる時に、何だかしっぽとお尻が近くなったなあと感じた時だった。それだけ彼の全身が縮んで来ていたのだった。
キャラメルはミルクという兄弟の猫もいて、キャラメルは父親がペルシャ系、ミルクはシャム系だったらしく、わりとクールなキャラメルに対し、ミルクはあけっぴろげな甘えん坊だった。キャラメルが死んだあと、今でも実は全身で憎むことをやめられない数人の友人知人から「今度はミルクをキャラメルの分もかわいがって下さい」と言われたことが理由で、私はどうしてもミルクを愛せなくなり、このままでは殺してしまうと自分を恐れて、一時的にでもと、田舎の母にミルクを預けた。彼は母に甘えて満足していたようだったが、やがて母の旅行中に家出していなくなり、私は帰省して近所をさがしまわったが、見つけることができなかった。
人間でも動物でも、どうかすると物でさえ、私は愛するとそのとばっちりで、絶対に何かを誰かを憎んでしまう。ミルクをどうしても愛せなかったあの時期と、その原因となった「キャラメルの分もミルクをかわいがって」ということばを口にした人たちを思い出すと、私は今でも戦慄する。これ以上苦しめないほど苦しんだ自分を責めるのは、安全上、もうやめているが、理不尽だろうと何だろうと、その人たちのことは決して許す気になれない。死ぬまでもう、どんな意味でも自分のそばに近づけようとは思わない。私自身もそうやって、気づかないまま、ことばやもの言いで、人を傷つけ、切り捨てられることはいくらでもあるだろうと思う。それはもう、しかたがない。これはもう、理屈ではない。
別にそのトラウマがあったのでもないが、仕事の忙しさもあって、二階に行くことは次第に少なくなった。その後に飼った数匹の猫たちが二階で暮らしていた時期もある。キャラメルがいつも窓辺に座って、私が出かけるのを見下ろしていた窓には、灰色猫のグレイスが同じように座っていたりした。ただし、白と金色のキャラメルは、そこにいると遠くからでもよくわかったが、灰色のグレイスは周囲にとけこんで、いるのはたしかにわかっていても、それとはっきり確認できないのがちょっと切ないなあと、私は車の窓から見あげながら笑っていた。
その後、八年ほど前に、前の空き地が売り出されて、隣りの人と相談して私が買うことになり、ワンルームの小さい家を建てた。故郷の実家のそばに、母の隠居所の新宅を建ててくれた腕のいい大工さんが一族郎党引き連れて、遠くまで来て下さって立ててくれた、その家の一角に、私はクローゼットのようなパニックルームのような小さな部屋を作ってもらった。ワンルームの家の中の隠れ場所でもあり、L字型の台は寝台代わりになって、窓から上り坂の道や小さい木の茂みがながめられる。置き場所に困った小さいこたつをL字の角においてからは、ますます居心地よくなって、母の位牌をこたつの上に置いていることもあり、毎朝水を代える時に、ついちょっと座って本を読んだりすると、もうこたえられない。まるで天国みたい、と私は枕に寄りかかって、外を見ながら悦に入っていた。
あまり使わなくなった旧宅の二階の方は、叔母が亡くなったり、田舎の家を売ったりして、荷物が増えたのをきっかけに、近くの大工さんに頼んで、粗削りなままの材木と金属パイプを縦横にめぐらせて、限りなく洋服をかけられる大きなクローゼットにした。これで服は何とかおさまったものの、全体が大きなたんすのようになり、歩くこともままならず、楽しんで過ごせる場所とはほど遠くなった。
それからまた数年して、服も少しずつ人にさし上げたりして処分し、全体の荷物も何とか減って来たのをきっかけに、荷物置き場と化している寝台を、また昔のようなくつろげる空間にして、できれば新宅のクローゼット風の小部屋と同様の、隠れ家風のコーナーにして見ようかと思い立った。
以前に、新宅の方の洗面所を、突っ張り棒とフェイクのつる草で飾り立ててみた結果、それまであちこちでいまひとつ、ぱっとしないままになっていた物の数々が最高の舞台を得て活用できたという体験を書いたが、これもまた、それ以上に大成功した。
まず、田舎の家の離れの出窓などに敷いていた、古い布類や、母とテレビを見る時に座布団代わりにしていた、特注の小型のふとんが、寝台の上に置くのにぴったりだった。ふちに白い房がついた、緑と白の色あせた布は、たしか大昔にソ連の産物展で私が買った代物である。
キャラメルが私を見下ろしていた小テーブルは、今は新宅の食卓になって活躍しているが、そこには田舎の家にあった、叔母や叔父の使った小さな本箱が置かれていて、それにも古い布をかけた。
何よりうれしいのは、叔母の枕が大量に余っていたのを、周囲に重ねて並べたら、怪しげなソファー風になって、寄りかかるのに最適で、ひとつ残らず活用できたことである。おかげで、階下の押し入れもすっかり空きができて、座布団などが入れられるようになった。
この二階を増築した最初から、私が福岡の電気店で安いのを買って来て使っていた、どぎついピンクのランプのような変わったかたちの照明器具も、再び寝台の上につるした。独特の雰囲気があり、そのまま床にもおけるもので、開拓者にでもなった気分になれるのだ。
時間がなくて、なかなか貼りつけられなかったタイルも、柱のあちこちにぺたぺたはりつけ、何を思って買ったのかもうわからない、細い金属のパイプ棒も、むぞうさに天井のパイプにひもで結びつけたら、なかなか悪くない格子ができた。
その上に、これまた持て余していた、大判のカレンダーを放りあげたら、ちゃんと天井画になった。
多分、母が買って来たのだと思う、木製の鳴子のような風鈴も、ずっと田舎の家の座敷にかかって何となく所在なげにゆれていたのを、これまた長いこと適当に私は新宅の玄関のドアにひっかけていたのだが、これも、ここの窓辺につるした。昔と同じに勢いよく吹きこむ風に、ころころと柔らかい音を立てると、その向こうに広がっていた、田舎の庭のつつじの茂みや巨大な石灯籠が浮かび上がって来るようだ。どうやら、これも、ここが終の棲家となりそうである。
そして、がらくたの中から出てきた時にはさすがに驚いた、私がまだよちよち歩きのころに遊んでいたのではないかと思う、ブリキのかまどと、青い魚。これを見ていると、たしか緑色の七輪もあったなと思い出すのが恐ろしい。さらに、積み木のいくつかも出てきて、このエンタシスのような模様が入ったピンクと白の二本や、両端が赤い黄色の一本は、当時の私にはとても貴重に思えて大事にしていたと、それも、ありあり思い出せる。もう、本当に何だろう、人の記憶というものは。
古いものだけでもどうかと思って、新しい目玉を探していたら、街のデパートの特設会場で、黒い魚のモビールを見つけて、すっかり気に入った。現物しかないというので、帰ってネットで注文した。五千円ほどの散財だったが、その価値はあって、寝台に横になって見あげると、魚が風にくるくると泳ぎ回って、いつまで見ても飽きない。あとは近くの行きつけの店で買ったドライフラワーと、百円ショップで買ったフェイクの果物、何年か前に一つだけちゃんと実って乾燥できた小さいひょうたんと、北九州の雑貨屋で買ったどこか中東のひょうたんと、そういうものを、適当に周囲につるした。
キャラメルがいつも私を追いこして、得意満面に見下ろした階段の最上段には、叔母が昔飼ってくれた籐製のカエルをおいた。中には実は当面余った下着がつめこんである。このカエルも存在感があるわりに、なかなか置き場所が決まらなかった。ここで門番をするのは定位置としてもよさそうだ。
夏は暑くてたまらないだろうと思いがちだが、吹き抜ける風のさわやかさは、家じゅうのどの場所よりも群を抜いている。ここに横になって、目の前の本棚から「熱砂の大陸」「猫の泉」「チボー家の人々」など、懐かしい好みの本を手当たり次第に抜き出しては読んでいると、もうこれ以上の何もいらないという気になる。
洋服の保管場所にした時から、このエリアには猫は入れていない。人といっしょに並んで座っておしゃべりしたら最高だろうが、男女を問わず、それほどに親しい人がこれから現れるのだろうか。こんな場所なら、二度と許す気にならないと思った人とでも、時を戻して過去に帰って、こだわりなく話に花を咲かせられそうな気もする。
問題は、新宅の小部屋といい、仏間にしている小さい部屋といい、二つの書庫といい、こうやって、ふと腰を下ろして、空想や瞑想にふけり、本をつまみ食いするように読み、だらだら過ごせる至福の空間が、私にはいくつもありすぎることだ。
生きてる内から天国を、こんなにいっぱい作ってどうするんだろう。身体はしょせんひとつだし、残された時間は少なく、仕事は山積みだというのに。
それと、もうひとつ残念なのは、新宅のクローゼットも、二階の寝台周辺も、あまりに狭くて隠れ家風すぎて、どんなに私が身体をくねらかして、あちこちからねらっても、全貌の半分も写真におさめられないのです。よって、その魅力もまるっきり紹介できない。
まあ、天国って、きっとそういうもんなんでしょう。(2018.6.18.)