(53)リボンが活躍
私は着る服に昔からポリシーがない。早い話が何でも着る。これもひとつは叔母のせいで、彼女が金に飽かせて自分の好みで買ってくれる服を、もったいないからそのままいつも着ていて、自分の好みをまったく発揮しないまま大学を出て就職した。九州を離れて名古屋の大学に勤めたのは、もう三十を超えていて、その時初めて自分で自分の服を買った。安物のセーターやカーディガンをおっかなびっくり買いながら、さすがにちょっとうれしかったのを覚えている。
その反動かその結果か、ひらひらフリルのワンピースからジーンズに革のジャンパー、地味なスーツ、真っ赤なセーター、こいのぼりの模様のワンピースと、ありとあらゆる服を着るようになった。待ち合わせをする友人が、「どんなかっこうで来るか見当がつかないから、探すのに苦労する」とぼやくし、学生も私が毛皮でしっぽをつけたリスの編みこみセーターを着ていても、慣れているから驚きもしない。あいつらを注目させるにはあとは水着しかないなと私は人に言っている。
私は学生の授業評価というものをまったく信じていない。今はまだそうでもないが、初期のころには、やたらと細かい調査項目があって、「教師の服装は適していたか」と学生に聞くチェック項目まであった。ばかばかしすぎるから、私はわざわざ若者の行くような店に行って、背中にピンクの大きな竜の縫い取りがある暴走族みたいなジャンパーを、けっこう高かったのに購入した。そういうところの店員というのも偉いもので、まあ私がジャンパーを羽織って真剣に鏡を見ている気迫に圧倒されたのかも知らないが、びくともせずに「お似合いですよ」と言ってくれ、お子さんのですかともお孫さんのですかとも聞かなかった。その勢いのまま、髪にも紫のスプレーをひとかけして授業に行ったが、学生たちは気にした様子もなく、「服装には最高点をつけました」と、後で教えに来た学生もいたから、問題にでもなったら面白かろうと期待していた、私のもくろみははずれた。
その後何年かして、大学入試の際の監督をする教員の服装がふさわしくないと大学から注意されたとかされるとかされそうだとかいう話があったので、私はまた頭に来て、湯布院の山の上にあるギャラリーで、新進気鋭のデザイナーのかなり奇抜なデザインの服が展示されていた中から、ピンクと青と灰色のチュニックで、下半分は三角形の穴がざくざく切り抜かれている、相当とんでもない一点を選んで、これも高かったのを奮発して買って、センター試験の日にわざわざ着て行った。しかし人間の目は先入観と慣れでゆがんでしまうものらしく、誰も私のかっこうを変とも思わず、学長も事務長も気にかけた風はなく、たまりかねた私が同僚の男性に、「この服すごいと思わない?」と聞くと、彼は不思議そうに私を見て、「そう? いつもそんな感じだから特に何も思わなかった」と言い、受験生ももちろんそれどころではないから文句も出なくて、私の抗議行動はまたしてもこけた。人はふだんが肝心である。
かなり長期にわたった、その種の私のパフォーマンスは、大学が改革の中でやたらと「戦略室」という名称を新設するのが不愉快で、だったらふさわしい服装をしてやろうぜと、定年退職までの数年間、もともと身震いするほど嫌いで絶対に身につけなかった、迷彩柄の服や小物を絶対どこかに身に着けるようにしたことである。ついでに行きつけの美容院で事情を話して、髪も海兵隊員なみに短く刈り上げてもらった。
数年間そうして街に出れば迷彩柄を探していたが、そうやって探すとあまり見つからず、結局ものすごく上等のブランド品のジャケットやTシャツやパンツをそろえることになって、そういう高級品は着てるとただのお洒落に見えて、これまた私の抗議行動を知ってる人は面白がったが、不快感や衝撃は多分誰にも与えられず、やっぱりどこかまちがった。退職の時にその立派なジャケット類は同僚の先生たちに皆さしあげてしまったが、今でもいくつかスカートやパンツや帽子やスカーフが衣装箱の奥から出てくる。まあこういう戦闘服をファッションに用いるのも平和ならではのことかもしれないと、今では軟化して着用している。
これを要するに、結論として私はたとえ怒りの極限の抗議行動でも、人を不快にしたくないし、自分を醜くもしたくないのである。それでは勝利できないのかもしれないが、怒りや抗議は楽しさや美しさや優しさと共存しないと私は戦えないのだからしかたがない。いいさ、いつかは勝つし、どこかではきっと、すでにもう勝ってる。
さて、そういうこともいろいろある上に、叔母が亡くなったあと、これまた六畳か十畳の部屋を二つか三つ分ぐらいぎっしりにしていた華やかなワンピースや毛皮のコートなどの豪華きわまる服の山が全部私の所有になった。もちろん、さまざまな人にこれでもかというほど引き取っていただいたし、大いに感謝されもしたが、それでも一向に服は減らず、おまけに田舎の家のたんすからは、母の服や祖母の着物もけっこうな量が出て来るのを、私は本当に二十年近く、荷造りして寄付したり処分するのに明け暮れた。施設に送ったダンボールの数は五十を超えていたのではないだろうか。
やみくもに大軍勢を相手に切り結んでいるような日々が永遠に続くかと思ったが、気がつくと何となく、それなりの量におさまって来て、数年前に私は今住んでいる二軒の家の旧宅の二階をまるごと、洋服用のクローゼットに改造して、ぎっしりと服をつるした。それを最近また少し整理して、昔ベッドに使っていた縁台のような木の棚の周辺を、再び横になって本も読める快適な空間に戻した。
二階全体はワンルームになっていて、中央部分に洋服をつるし、今まではその周囲にもかけていた分は、何とか減らして空間を確保し、楽に行き来もできるようにしようとした。ハンガーにつるしてかけていると、セーターやTシャツは肩のあたりが伸びてしまいそうなので、この際そういう、たたんで丸めてしまってもいいものは、階下の衣装箱に戻そうと思った。しかしそこにもまだその内に仕分けして処分する下着が入っているし、下手にしまって見えなくしたらまたそのままにしそうである。何かいい方法はないかと考えていて、ふと、二階の一角にベッドを作るとき、ふとんや枕を使った分、階下の押し入れに空きができていることに気がついた。
田舎の家を引き上げるとき、荷造り用に買いこんだ大きなビニール袋がたくさんある。あれにセーターやシャツをつめこんで、これまた使い道に困ってためこんでいるリボンの切れ端で結んだら、外からも見えるし、海賊のお宝か大きなキャンディーみたいで楽しいんじゃないかと思い、さっそく実行してみた。重いのはいやだから、小さめにして早めにくくってしまうのがポイントだ。
二階から次々下ろして押し入れに放りこんだら、うまくおさまった。これなら入れ替えもうまく行きそうだ。もっとも袋詰めというのは、本質的に何だか不穏で無気味なもので、袋を運びながら連想したのは、映画「バタリアン」の、小分けにして焼却するゾンビの肉片が袋の中でばたばた動いている様子とか、ローレンス・ブロックのミステリ「獣たちの墓」で、ばらばらにされた奥さんの死体が車のトランクに袋に詰められて捨ててある場面とか、ろくなものではなかったが、それもまた刺激的でスリリングで妙に元気が出たりした。
そういう作業をしている時に、ふとまた思いついたのは、カレンダーやポスターなどを壁に張り替えるのに保存しておくのにも、一枚ずつの小さい筒にして、リボンでくくって高い棚の上に上げておけば、リボンもいいあんばいに消化できるし、もうこの年では重いものなど載せておくと下ろすのが危ない高い棚も利用できるし、一石二鳥か三鳥になるのではってことだった。
これもさっそく実行した。どうもこの二階の寝台の一角は、現実の見た目の良さや快適さが、写真ではどうしても表せず、ただ非常にごたごたしているようにしか見えないのだが、実際にはとても楽しい空間なのだ。リボンはそこでしっかりと、役目を果たしてくれている。
まだまだ家のあちこちに、こうやって保存しておきたいポスターや地図などがある。さがし集めて来るのが楽しみだ。こういう風に、「行きつく場所」が確保できると、片づけはぐっとやりやすくなる。(2018.6.30.)