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(54)つわものぞろい

二階のワンルームのほぼいっぱいを、クローゼットにして洋服をかけている。他にも階下の部屋の押し入れに、相当量の服がある。七十年も生きていると服だってこのくらいはたまるのよと若い人には言っているが、それにしても多すぎるのは自分でもわかっている。
洋裁上手なご近所の奥さまにもらっていただいたり、いろんなところに寄付をしたりして、それなりに減らして行ってはいるのだが、かなりそうやって減らしたこの段階になると、残っている服は皆それなりに、いろいろな理由があって処分できない、言ってみればつわものぞろいで、おいそれと手放せないものばかりだ。

資料を集めて論文を書くときの癖で、手放せない服の核になる特徴を考えてみると、私の場合、だいたい三種類のものにまとめられる。
第一は、十五年ほど前に亡くなった叔母が遺した極上の美しいワンピース類。叔母は着物は全然着なかったが、その分、洋服には金をかけたし量も多かった。もちろんすべてが仕立てたもので、私は叔母が亡くなってデザイナーさんはお店は大丈夫だったのだろうかと、今でも心配になるほどだ。多分、どの服も十万以上はするのだろう。叔母は小柄でやせていたが、楽な仕立てを好んで、すとんとしたデザインのものが多く、おまけに腕がわりと短いという、私と同じ特徴があるため、ワンピースはほとんど私がそのまま着られる。

叔母は女医で、晩年は老健施設に勤めていた。八十代の高齢だったから、ほとんどかたちだけの勤務だったと思うが、毎日、目の覚めるような花柄の派手な服を着て、真っ赤なパンプスをはいて行くので、叔母よりもはるかに若い入居者の方々が驚きつつも目を楽しませて、活気づかれていたらしい。そんな服の数々が、季節ごとにクリーニング店に保管してもらっていてもなお、八畳ほどの洋間のクローゼットと、六畳ほどの和室にぎっしり詰まっていた。晩年に身体が弱ってからは、季節ごとの服の入れ替えも重労働なので、叔母は疲れるようになり、私もときどき手伝いに行った。叔母はあるとき、やけ気味に「もう、こんなことしてると、自殺しようかと思った」と口走り、温厚な叔父は驚いて「そうまでしなくても」と笑っていたが、まあ、その十分の一もない服の山に今、手こずっていると、そんな叔母の気持ちもわからないではない。

そんな叔母の服を、ベルベットに刺繍入りとか、思うさま手の込んだ贅沢な服の数々も、私は親戚や知人や友人や多くの人にさし上げて、残り十着ほどにしている。自分が好きで残したものもあるが、派手すぎて他人は敬遠したものが多く、結局たいがいの服は気合で着倒す私にしか着られないものばかりだ。それでも品がいいだけに、いざという時は重宝し、歌舞伎やミュージカルの観劇や諸行事には役に立つ。憲法学者の小林節氏を招いて、むなかた九条の会やオール宗像の仲間と講演会を開催し、八百人の聴衆を集めて盛会だった際に司会をつとめた時は、中でも華やかな服で開き直って景気をつけた。

ワンピース以外では、微妙にデザインのちがう、真っ赤なブレザーが三点、色とりどりの厚手のジャケットが数点、これらも到底普通の人は着る勇気がないだろう。
だが、上等の品はかくもあるのかと実感するのが、これらのブレザーやジャケットはどれも驚くほどに着心地がよく、暖かい。一度着たら、その味わいが忘れられない。
問題は、すべてクリーニングに出して、それも上級の洗い方をしてもらわなければならないことで、最近、家の近くに信頼できるクリーニング屋さんを見つけたので、安心してまかせられるが、それにしても高くつく。一度、従姉と服の整理をしていて、「クリーニングだけでもお金がかかってしまうのよ」とぐちったとたん、整理していた服のポケットから数万円が見つかって、「あー、なおこおばちゃん、聞こえたんだ」と二人で大笑いしたことがあった。

第二は、私自身が学生時代や院生時代の昔から、叔母にもらったり自分で買ったりして着ていた服で、かなり処分もしたのだが、何かの都合で今まで残ってしまったものは、あまりに歴史がありすぎて、もはや服ですらないような何者かになってしまっている。白地に濃淡の緑の葉の模様がついたスーツ、首に本当の鈴がついて、ちりちり鳴る大きな犬の編みこみがあるのと、胸に二匹、背中に一匹、これもフェイクだがちゃんとどんぐりをくわえたリスの編みこみのと、叔母夫婦のおともで母とニュージーランドに行ったときに、それぞれにキウイと羊がついているのを一枚ずつ買った真っ赤なのなどのセーター類、自分で服を買い出した、ごく初期に買って、気に入っていた黒い薄手のコート、オレンジ色の色あせたコーデュロイのジャケット。時々着ることもあるが、もはやそれらは、どうかすると、過去に戻る舞台衣装である。

これらを処分できないのは、特にオレンジのジャケットや黒いコートなどは、さほどよい品でもなく、誰かの手に渡ってもゆめ大切にはしてもらえないし、バザーにでも出そうものなら主催者からそのまま処分されて捨てられるのがあまりにも明らかだからだ。そのくらいなら作業着にでも使って私のそばに最後までおいておこうと思ってしまう。
高級品とはまたちがった意味での、着古してなじんだものだけの、着やすさと快さがある。破れたジーンズがおしゃれなら、これだって、同じこと、もっと本来の正統な古着だ。

第三は、数はごく少ないが、祖母のものだったらしい、夏用と冬用の羽織と紋付だ。祖母が着ているのを見た記憶はない。たんすの奥に畳紙に包んでしまってあった。虫をつかせないように、冷や冷やしながら保管しつづけて、今はクローゼットにつるしている。
私が着ることもまずないだろう。パンツスーツの上などに、羽織ってみようかと思ったりするが、ご先祖様に恥をかかせるわけにはいかないから、よくよく考えて決行しなければならない。
いずれは親戚の誰かに引き取ってもらえたらいいのだが、仮に処分するにしても、私にはその勇気はとてもなかったが、この家紋の部分だけは切り取って、額に入れるか何かして保存してもいいかもしれない。これがあるから私もこの羽織類をあっさり処分できなかった。

これは板坂家の紋所で、お墓の花入れなどにも彫ってもらっている。私が遊び半分で建てた、自宅近くの霊園の小さい個人墓には、田舎の墓地の墓を改修したときに出た石の一部を細工して、表面にこれを彫ってもらって、墓の前の飾りにしている。
三本の蕨が並ぶ、あまり見ない家紋だが、紋所の図鑑などにはちゃんと出て来る。
母や叔母や祖母が話していたのをぼんやり覚えているのだが、これはもともと板坂家の女性が使う、いわゆる女紋で、男性のはもっとよくある普通の紋だったらしい。それを女性たちが、こっちがいいということで一家の家紋にしてしまったと、母たちは言っていた。

そんなことが、そう簡単にできるものか、どういういきさつでそうなったのか、私は知らない。たしか祖母や母は「女たち」と複数で言っていたような気がするから、おそらく曾祖母の代あたりの、複数の女性たちのしたことだろう。男性たちも反対しなかったのは、人とちがうことが好きな、板坂一族の好みにこの蕨の紋はかなったのだろうか。
私も、この紋は好きだ。デザインとしてもかわいらしいし、くるりんと巻いた蕨が疑問符のように見えるのも、三本全部が同じ方向でなく、一本がちゃんと反対側を向いているのも、すべてを疑え、多数には逆らえという教えのようで、さすがはご先祖、あっぱれと笑ってしまう。
そういう意味でも、この羽織類は、わが一族の精神のように大切にしておきたい。

今、漠然と考えている衣服計画は、この三つのグループは、永久保存として手をつけず、処分して減らして行くものとしては、その他の新しく買ったものを入れ替えて行くということだ。それならば、比較的新しいから誰にでも使ってもらえるだろうし、私にもそれほどのこだわりや愛着がない。確実にとっておくものはとっておいてあると思うことで、ある程度、気持ちも安らぐ。そう決めてしまえば、これからは、あまり迷わず服を減らして行ける気がする。(2018.7.8.)

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カツジ猫