(87)どこで拾って来たんだよ
専門の研究が江戸時代の紀行文学なのに、私はあまり旅をしない。嫌いではないが、時間がない。でも、本当に旅が好きならそんなのは何とかするはずで、やはりどちらかと言うと旅よりも家にいる方が好きなのだろう。幼い時に本を読んで空想で旅をする癖がつき、森のように木々が多い広い庭のあちこちで遊んでいると、遠い世界に旅をしたような錯覚に陥りやすかった。庭石のかげで密林にいる気分になり、あじさいの茂みの下で荒野に住む夢を見ていた。そういう偽りの世界を味わう楽しさが、いつの間にか身についてしまった。
一方でなぜか私の周囲の人は、皆よく旅をする。親友は世界旅行にはまっているし、叔母と叔父も海外の各地へしばしば出かけていた。
母はと言えばもっぱら国内旅行を楽しんでいた。英語の教師をしていたこともあるし、長崎での活水短大時代は国文学以外は全部が英語の授業だったのだから、英語圏での会話には不自由がなかったはずで、海外に行けば楽しめたと思うが、「国内に行くところはまだまだ多いから」と言って、近所の人たちとの団体旅行にしょっちゅう参加していた。
母は旅先から私に土産を買ってきたことはほとんどないし、自分の記念にも安いものしか買わなかった。しょうもないような通行手形を百以上も集めていて、近所の仲好しのおじさんが、大きな竹竿を部屋の壁にわたしてくれたのに全部かけていたが、それだけそろうと、さすがに迫力だった。
ものが道中手形なだけに、母の棺に入れてやったらよかったのかもしれないが、それも何だかもったいなくて、さりとて、置いておく場所もなく、田舎の家を手放した数年後に、面白いかたちのものを十ばかり残して、あとは皆、いろんなものを引き取って再利用してくれるという団体に寄付してしまった。残したものは、玄関のあちこちにかけて、楽しませてもらっている。
多分一度だけ、母が珍しく旅先で買ってきたアクセサリーは、北海道のどこかで、若い人が作っていた木彫りのペンダントである。茶色と緑のちょっと変わったデザインで、母はその若い人に、「この中であなたが一番好きで、いいと思っているのをちょうだい」と言って買い求めたらしい。そんなに高いものでもなかったようだが、その若い人の誇りがこもっているような、そのペンダントを私は今もほほえましくながめる。
そんなのはまあいいのだが、母は一時期、旅先で石ころを拾うことにしていたようで、珍しく海外旅行で中国に行ったときの「1979.10.13.紅旗渠」の文字が書かれているピンクの石や、「潮の岬」と鉛筆で書いた紙が貼られた黒っぽいすべすべの丸い石などが出てくる。さらにまた、何も書かれてはいないが、どうせどこかで拾ったんだろうと思われるいろんな形や色の石が、大切そうに箱に入っている。
あげくの果てには、破れかけた紙袋に、砂利のような細かい石がざらざらと入っているから、お手上げだ。どこの砂浜か、ひょっとして有名社寺の境内か、もう何一つわからない。
たいがいの健全な頭の持ち主なら、こんなものは皆捨てる。私も、たいがいそうしようかと思いつつ、しばらく紙袋も石ころも、そのままにしていた。
結局、こういうのを、一番無難に保管するのは、ガラス瓶しかないかなと思いついて、近くのイオンの中にある、お洒落な雑貨店で、大きめのがっしりした六角形の瓶を見つけて買った。ひょっと足りなかったらいけないと、もう一つ、緑の丸いガラス瓶も買った。
砂と石を六角形の瓶に入れたら、案外きれいだった。横にして寝かせたらドアストッパーにもいいぞと思いながら、さしあたり今は書棚にのせている。
丸い瓶の方は余ってしまったが、見てくれがいいのでそのまま台所のテーブルに置いている内、福岡のデパートで、ガラス製のマドラーがあったので何本か買ってさしてみたら、それもそう悪くなかった。こうやって、またものが増えるのだよな。
「紅旗渠」の石をはじめ、大きすぎて瓶の口を通らなかったいくつかは、玄関においてある、砂をいれた器の中の、ガラスの金魚のそばにおいてやった。これでようやく、得体のしれない石たちの行き先はすべて決まったことになる。
得体がしれないと言えばだね、この「紅旗渠」をネットで調べたら、出てくる記事が全部中国語なものだから、どういうところかわからない。「青年洞」とセットで出てきて、母の中国旅行の時の写真には、まさに「青年洞」と白い字で大書された崖の前で、今の私より多分若い母が、黄色いスカーフなんぞして、皆と並んでさっそうと立ってる姿がある。この旅行はたしかまだ中国には普通に行けない時代で、学校の先生方の特別な旅行に母も参加させてもらったはずだ。ありふれた観光地には行かなかったのかもしれない。
たしか、母の文章も載った、この旅行の感想文集をどこかで見たような気がするから、今度探して読んで見ることにしよう。ほらね、こうやって、ものも増えるが、浪費する時間も増えるのだ。まったく何たることだろう。(2019.7.31.)