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(10)多分かなわない夢

私には夢がある。と、キング牧師の崇高な名文句をこんなところに使ってはバチがあたりそうな上に、スケールの点で月とすっぽんどころではなく比較にならない、情けないにもほどがある小さな夢だ。しかも多分まず実現はしそうにないから、ますますもって情けない。
その夢は何かというと、キッチンから風呂場からトイレから、バスタオルもフェイスタオルもハンドタオルも、すべてのタオルを一色もしくは二色ぐらいの色で統一してしまいたい、ということだ。どーです、脱力するでしょう?

何かのはずみに片づけに行きづまったり、疲れたときに、ふっとこの幻想にとらわれると、とまらない。白一色ではむろん淋しい。ベージュとピンクあたりかな。グリーンと茶色はどうだろう。淡いブルーと灰色で統一するか。いっそ全部灰色だったらどうだろう。黄色にまとめて、ストライプとドット柄で変化をつけるとか。
きれいだろうなあ、すっきりして。せめて足腰立たなくなってどっかの施設や病院に行く前の数年間か一年でも、今のタオルを全部処分して、そういうことをしてみたいなあ。ついでに、ふきん類も全部新しくして、模様なんかない無地のにしてみたいなあ。
そんなことをうっとり考えていると、萩原朔太郎の「フランスに行きたしと思えどフランスはあまりに遠し、せめては新しき背広を着てきままなる旅にいでてみん」とか、石川啄木の理想の家を夢見る詩とか、そういうものの最後の方で二人ともが、ひとりでににっこりしてしまっている、あれと同じような心境になってくる。多分、自分でも気づかず実際に微笑んでいる。

キング牧師の壮大な夢とちがって、これはその気になって思いきり無駄遣いすれば、多分今すぐにでも実現できる夢である。
にもかかわらず、私はそんなことをしないし、多分永遠にしないのを知っている。
どこの家でもそうだろうが、私の家にもそこらじゅうに、ありとあらゆる色とサイズと材質とデザインのタオルがある。使っても使っても、子どもも病人もいない家では、そうそう使い切れるものではない。新聞販売店やガソリンスタンドでもらう白いタオルは二つに切って、ふきんや台ふきにするが、これがまた、どれだけ拭いても洗濯してもまず絶対に破れないしへたらない。この数年でやっと数枚がすりきれたり穴があいたりしてきたのが、むしょうにいとしいぐらいである。映画「グラディエーター」でローマの将軍に仕えていた従僕が、どこから監督は調達したんだと言いたくなるようなぼろぼろのふきんを手に持っていたが、ああいうようになるといいなあ、といつの間にかあこがれてしまっている。

ましてや普通のタオルとなると、毎日風呂に入ってもジムに行っても、ちょっとやそっとでは傷みもしない。もういつからか買った覚えさえないのだが、どれも立派に機能して、色あせもすりきれもしない。
さすがに、去年亡くなった母が施設で使っていたタオルは安くても新しいのがいいだろうと、少しごわごわになったら、やわらかい、華やかな色のに買い替えていたが、それは古くなったら施設にさし上げて使ってもらっていたので、今は最後に残った数枚しかない。
私がふだん使っているタオルのすべては、もういつ買ったのか覚えてもいない。下手したら学生時代つまり今から五十年近く前のがまぎれこんでいるんじゃないかと思うほどだ。

その中でも、たしかにこれは、学生か院生のころ、五十年近く前に買ったなと確実な数枚がある。
今も変わらない、福岡の天神地下街の味のタウンに行く通路だったと思うが、タオルの特売の出店が出ていた。その時だけの催しで、台の上の箱の中に山と積まれて、とぐろを巻いてからみあうタオルを、お客さんが立ち寄って見ていた。
販売員の男性は、これはホテルで使うはずのタオルだったので、丈夫さが普通のタオルとはちがって、長持ちするのは比べ物にならない、と宣伝していた。タオルはそれらしく上品なベージュや茶色で、ホテルの名前が目立たないように織り出されて浮き出していたりした。

一人のご婦人が「これは普通のホテルのですか。ラブホテル系のもありますか」と遠慮がちに聞いておられたのを覚えている。販売員は「あー、それはちょっと保障はできないです」と答えていて、その奥さまは結局買うのをあきらめたようだった。
その時の自分の気分をよく覚えてはいないのだが、どうせ私のことだから、それはかえって面白いとか考えたに決まっている。とにかく私はそのタオルを全種類、と言っても六七枚だが、購入した。バスタオルがあったかどうか覚えていない。ほとんどがフェイスタオルだった。
販売員のことばに嘘はなかった。そのタオルはもつわもつわ、五十年たった今も現役である。一度数枚を切ってふきんにしたのだが、それはそれで多分まだどこかに残っているはずだ。
もちろん固くなり薄くなったが、破れる気配もなく、立派に水を吸い、かさばらない分重宝する時もある。何よりもうこうなったら、いつどんなかたちで寿命が来るのか見届けたくて私も意地で使っているのだが、この分では下手したら私が先に死ぬんじゃないか。

他のタオルの多くは、ぜいたくな暮らしをしていた叔母がくれたか、遺したかしたものである。実は叔母は大理石かなんかで作った豪勢な洗面所の棚にぎっちりびっしり、一枚いくらするのかわからないような高級タオルを入れて使っていた。古びたものさえなかったから、そういうのは人にあげていたのだろうか。
叔母が亡くなったあと、身近で世話をしてくれていた数人の方に手伝ってもらって、膨大な衣服や器や雑貨の整理をした。私は忙しかったこともあって、最期のころの叔母の世話を充分にしてやれなかったという悔いがあり、何ひとつ自分がもらう権利はないような気がしていたこともあって、大変な値打ち物の品物に取り囲まれながら、物欲というものがみごとにいっさい消えていた。だから、手伝ってくれた人、介護をしてくれた人、叔母の知り合い、その他の人にすべてをどんどん持って行ってもらった。

叔母の人柄もあったのか、あまりにも山ほどの品物があると、逆に無欲になるものか、片づけに関わった人たちは皆本当にその品物の行方に関心を示さず、精力的に献身的に働いてくれた。ところが、その内に、その中のお一人だけが、どことなくそうでもないのに私は気づいた。私は叔母の思い出が残る品物のいくつかを、持ち帰ろうと思っていたのだが、その人はそれについて「あれをどうします?」と聞き、私が「それは持って帰る」と言うと何となく「あー」という感じの表情をした。

私はこういうときに何一つ反応をしないし、態度も変えはしないのだが、恐ろしいものでその瞬間に私の物欲のスイッチが作動した(笑)。それを作動させたまま見ていると、その人は無意識かもしれないが、実に何がどこに行くかを目配りし、自分の関心のあるものを人に渡さない流れを作って行くのだった。私は感心したが、こちらもそれを見ているのが面倒なので、その段階で、「皆さんにさしあげるのは、あとでわけるので、いったんここでとめましょう」と言って、運び出すのをやめてもらった。叔母や叔父が、思いがけないところに現金や宝石を隠しているのを見つけたから、と、その理由を説明した。まんざら嘘でもない。
すると、その人はそれ以後いくつかの場面で「あれは残せばよかったのに」「あれはどうするのですか」などと、目立たないが明らかな、いくつかの態度のほころび、足元の乱れを見せた。私は全部「あとで決めましょう」と言ってその場を流した。以後は金目のものもそうでないのも、すべて自分でチェックしてさしあげる相手を決めた。

物欲は物欲を呼ぶ。その人がそんな気持ちを持っていても、きちんとそれを出さずにいたら、私は最後まで、叔母の荷物のすべてを、その段階で関わりのあった人すべてに、もちろんその人も含めてさしあげてしまっていたろう。その人がそうやって私が気づくような反応をしたのも、私のそういう様子に安心したからかもしれない。私はよくこうやって人になめられ、相手をつけあがらせる特技があって、愛してもいないし、許す気もない相手なのに、気を許させ油断させてしまうのが、我ながらつくづくやっかいな性格だ。

その時点ですでに運び出されてしまったものの中に、あの大量の美しいタオル類も入っていた。どのように分配されたのかそれも知らない。その後ときどきちらっと惜しかったと思ったことはある。しかし、もしあれを私が持っていたら、それこそ二百歳まで生きても使ってしまえなかっただろうから、まあそれはそれでいい。
叔母の持っていた美しいタオルは、その後も家のあちこちから十枚近く出てきた。それもまた、使えないまま、手つかずで私はそのまましまっている。何かいい使い道がそのうち見つかるだろうと思いながら。

そんなこんなで、さしあたり、適当に古びた、ちぐはぐの柄と色のタオルを、洗面所にかけている。いつからか、大きなバスタオルを使っては洗うのが、もったいなくて面倒になり、フェイスタオルをその上にかけて、それだけを毎日取り替えるようにした。
そうしたら、これがまた、平安時代の衣装の、襲(かさね)の色目のようなもので、いろんな組み合わせを工夫するのが飽きない。例のラブホテル系か何か知らない古タオルも、それなりにいい味を出す。
襲の色目は、「紅梅」「樺桜」「青紅葉」「雪の下」などとたくさんの優美な呼び名がついている。それを思って、わが家の洗面所でも朝な夕な、タオルを重ねて、源氏物語風の楽しみを誰に見せることもなく、一人ひそかに味わっている。

しょうもないですが、ごらん下さい。

以下のフェイスタオル三つは、例のホテル用の年代物です。最後のはおまけ。風呂場の小さなハンドタオルです。これもつい、襲にしてしまいました(笑)。

(2017.6.16.)

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カツジ猫