「ダウントン・アビー」断想(4)
たいがいなすったもんだのあげくに、めでたく結ばれて最高に幸せだった、長女メアリーの夫マシューが待望の息子の誕生直後、自動車事故で死んだのは、むろん大変な悲劇である。これがショックで以後は見るのをやめたという視聴者もいるようだから、制作者もなかなか大胆な決断をしたものだ。
当然ながら、その後かれこれ半年近く、メアリーはショックのあまり廃人同様に落ちこんでしまうし、父の伯爵をはじめとした家族や使用人たちも、心を痛めつつ彼女に気を使ってこわれものを扱うように大切にする。そんな誰の気持ちも、見ていて本当によくわかって共感する。
ところがである。これはもしかしたら私だけかもしれないのだが、マシューの母のイザベル・クローリー夫人の方はそれに比べていまひとつ、切実な嘆きが伝わらない。実際私は見ていて何度も「あ、そうか、この人もマシューの母親だったのだから、母一人子一人だったのだし、それは嘆きはメアリー以上に深かろう」と思い出さなくてはならなかった。
話の中心はメアリーのどん底からの再生だから、焦点が薄れるのを避けて、母親の嘆きの方の描写はひかえめにしたのかもしれない。彼女はもちろん、深く傷つき絶望していて、ずっと後まで苦しんでおり、メアリーが回復し再生するのを祝福しつつ、取り残されたような淋しさや虚しさを感じずにはいられないことも口にしている。
だがそれが、どうも、こちらが見ていて心に突き刺さるような痛切な演技や演出で伝わって来ない。私はクローリー夫人が大好きだし、このドラマの登場人物全員の演技力と来たら、もうどこを探しても弱点が見つからないほど、端役にいたるまで完璧だから、これは絶対に演技や演出の下手なせいではないと思う。だったら理由はひょっとして、私の方にあるのだろうか。
クローリー夫人は、向かうところ敵なしの先代伯爵夫人とタイマンを張れるほど、強靭で冷静で前向きな、そして暖かい人である。取り乱したり落ちこんだりすることはなく、常に積極的でパワフルでエネルギッシュだ。こういう人が最愛の一人息子をなくしたらどうするかというと、それはきっと普通に生活を続けるだろう。そもそも彼女が泣いたり涙したりする場面はたしか一度もなくて、これも考えてみるとすごい。そういう描写や表現をドラマはあえて徹底的に封印しているとしか思えない。
いや考えたら、泣くだけではない。ベタでやダサい演出だったら絶対すぐに思いつくだろう、ベッドで枕にほおを寄せて涙するとか、マシューの写真をとりあげてじっと見るとか、彼の服や持ち物をいとおしげになでるとか、耐えかねた感情を爆発させて鏡をなぐって手を怪我するとか、およそそういう映像をまったく彼女は見せていない。特にはりつめた深刻な顔もせず、負のオーラも出さず、静かに座って普通の生活をしているだけ。
「一人息子を失った母親」という、女優にしたら最高最強の演技の見せ場を、彼女はまったく使っていない。よくもこれで承知したなと思うぐらい、そういう表現が皆無だ。表情にもしぐさにも、まったく苦悩や憔悴を表さず、彼女は生きている。
だから、ドラマの中の現実でも、周囲の皆は私と同じで、「どんなにか絶望しているだろう、悲しいだろう」と思っても、見ていて彼女の悲しみの深さが、よくわからなかったのではないだろうか。鈍感な人だったら「案外元気なんだな」ぐらいに思っていたのかもしれない。ある程度はわかっていても、メアリーのようにその程度が測れない分、どうしたらいいのか判断できなかったのかもしれない。
家政婦長のヒューズさんは、ホームレスになった不幸な男の世話を頼むことで、夫人に再び生きる力を与える。さすがはヒューズさん!というしかない、冷静で的確な対処法で、下手に慰めたり力づけたりするのではなく、必要なことだけを素知らぬ顔でやってのけるのはみごとすぎるが、言いかえれば、こういうやり方以外では夫人を救うことは、きっとできなかったのだ。
そう考えると、一見不自然で不十分に見えるほど抑制された、この「涙のない母の嘆き」の物語は、もしかしたらメアリーの絶望と再生の物語以上に、深くて重い制作者たちの冒険と挑戦だった可能性もある。