「六ヶ所村の記録」感想つづき(これで終わりです)
私は何十年か前、まだ若いころ、東京に出張したとき年下の友人の家によく泊めてもらった。彼女や、その友人たちの仕事と家庭を両立させ、一刻の無駄もなく精密な歯車のように働き成果をあげる日常を、その話からうかがい知るにつけ、高速で回転する機械を見るような畏怖を感じた。
その一方で、田舎に帰って母が教えてくれる村の生活、町内会での議論や近在のゴシップなどを聞くと、これまた時が戦後どころか明治維新から停止しているような感覚になって、いつも軽くめまいがした。
私はほとんど幼い時から、いつもそのような最先端の都会のエリートと時がとまったような田舎で生きる人々の双方に、引き裂かれる気持ちで生きてきた。だが、都会の最先端の中央の生活がいかに進んでいて無駄がなく効率的で合理的で最新鋭のジェット機か光速の速さで飛んでいたとしても、私はあまりそれにあこがれも、うらやみもしなかったし、あせりもしなかった。
むしろ私が実感したのは、いかにその中央の一握りの人々が無駄のない毎日を過ごし、ジェット機で飛んでいたにしても、日本でも世界でも圧倒的に多いのは、あいにくと私の田舎の村のような世界であり、いかなるジェット機でもロケットでも、それをひきずって飛ばなければならないのだという、もう、ありありとと言いたいぐらいの実感だった。
それは、田舎と都会、地方と中央という区別でさえないのかもしれない。まあしかし、それが一番わかりやすいだろう。
原発事故は、人類が便利さを追求しすぎた結果とか何とか言われているが、もうひとつの側面は、底辺、地方、辺境といった言葉に象徴されるものに目を向けないで、中央が突出し暴走した結果でもあるのではないかということだ。
冷静に見ている場合ではないのは承知しているが、今回の事故で現地の人たちが「東京に原発を持っていけ」「東京で使う電力のために」と口にするのはもちろん、もっともなのだが、地方で起こった事故の結果の電力不足でこれだけ不便になり不快になる大都会の状況も、ぎりぎりまで快適さを追求し無駄を省いて効率を上げてきた、「光速ジェット機」のもろさや弱さを暴露したように見えないこともない。
精巧で緻密な機械ほど脆弱だ。それがいいとか悪いとかではなく。
おそらく、「時がとまったような」田舎の、露骨に言うなら知識や文化のなさは、実は今都会にも広がりはじめていると思う。その一方で「ぎりぎりまでの快適さを追求し、がまんをしない」中央のエリートの感覚は地方にも広がりはじめていると思う。そういう、ありがたくない交流はあるものの、都会と田舎という分類だけでなく、「脆弱で繊細なエリート」と「鈍重で泥臭い民衆」の役割や任務分担を、もう一度見直す必要がある。自分自身の中のその両面も。
いやもう、なんで「六ヶ所村の記録」から、こんな感想になるのか私にもよくわからないが。(笑)