「大学入試物語」より(1)
大学入試物語 第四章(3)
7 授業評価というまやかし
ひとつ言っておきたいのは、私がほめあげた「消費者のニーズに応える」という企業の姿勢を大学においては「学生の要望を聞く」ということと解釈しているらしい方針や政策がやたらと目につくことだ。
特に授業に対するアンケートを行なって教員の人気度、好感度も含めた点数を評価に反映させるのが最近では普通になりかけている。だからこそ、私も条件節をいっさい省いた極論を言うが、だいたい教育、特に知識や技能の伝達において、教育される側の希望や要望をとりいれるのは、根本からして自己矛盾だと思われませんか。今から学ぶ、自分が何も知らないことに対して、教え方がいいの悪いのどうしたらいいのああしたらいいのなんか、聞かれたって困るばっかりでしょうに。
大昔、私が学生だったころ、大学紛争が起こって「学生の意見をとりいれた授業をしろ」みたいなことがしきりに言われた。当時の私は自治会活動もしていたが、いわゆる全共闘やバリケード派ではなく、授業改革といった方面にはかなり消極的で懐疑的だった。
今でも覚えているが、そのころのあるコンパで、私が中村幸彦先生と白石悌三さんといっしょに話していて、ふと、つい、「私は学生が授業について要求を出すことには違和感がある。犬を訓練するときに、棒の大きさや投げる方向を犬は注文しはしない。教育とは基本的にそういうものではないだろうか」と言うと、中村先生はそれに反応されて、「私が・・・・するようにしたのは、・・・・ということがあったからだ」と述懐された。それに対して白石さんも「板坂さんが言ったその・・・・ということだけれど、・・・・という問題を私たちは考えないといけない」と応じられた。
で、その・・・・のところを私は覚えていないのだよね。わはははは。何ということでしょう。お二人はすでに故人になられて聞くよしもなく、第一聞いても覚えておられないかもしれない。
虫食いだらけの古文書のような、この私の記憶を再現すると、あくまでもニュアンスだが、お二人とも、ふだんは言えない、言う機会もない発想で、しかし常々感じておられたことを口にしておられたと思う。中村先生について言うと、先生は世の流れの趨勢であきらめて口を閉じられて、それまでの教育や授業の何かを黙ってやめられるか捨てられるか変えられるかしていて、その理由について語られたのだったという感じがする。私とちがって、その場でその言葉の意味を正確にとらえた白石さんもまた、その当時の雰囲気や流れの中では口にもできないままに消されつつある、大学や教育についてのある観点を、あえて、あらわに口にされたのだったと思う。
その後の議論の展開は、さらに私は覚えていない。何ともひどい、残念な話だ。だがそれは、どこかで今から私が話すことと関わる内容だったことだけはまちがいがない。