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「大学入試物語」より(13)

第三章 不公平をのりこえるもの

 1 ヒーローたちの戦い

 前の章で、私の話を聞いた若い職人が、「そんな最高の環境で受験しないと実力が発揮できないというのは甘えで、最悪の条件下で試験をするのが本当だ」と言った話をした。昨今の、まるでガラスばりの無菌室もどきに完璧な条件を整えるのがあたりまえだという、そもそもまったく非現実的な要求がまかりとおる現状では、私もついそれに賛成したくなる。だがまあ、そこはそう思うだけで、実際にはやはり、できるだけ良い条件で受験してほしい。私だけではない、大学の職員も教員も誰もがそれは願っているだろう。
 それでもなお、大学でもその外でも、ミスやトラブル、不公平は生じる。あえてもう言ってしまうと、そういう災難が自分をよけて行ってくれと神や仏に祈るのもいいが、むしろもう、それを予測し、計算に入れ、覚悟している方が受験生にとっては、きっといい。

 私は未婚で子どももいないから、親としての受験の体験はない。しかし教え子の多くが大学院や教員採用、就職の際の試験に臨むとき、毎回明らかな不公平や不条理も含めて、さまざまな苦い体験をし、一喜一憂した。そんなとき、彼らの助けにはほとんどなれなかったが、せめてものアドバイスとして、授業その他でいつも、くり返し言ったことがある。
 ひとつは、「完璧な状態で受けられる試験など、世の中にはない」ということである。そんなことを言っていたら、私自身がこのところ講演や何かがあるたびに、新幹線の切符を落とすわ、資料を作っていたノートが消えるわ、もう笑ってしまうしかないハプニングが起こっている。それでも何とか間一髪いつものりきるので、心臓には悪いが、およそベストの状態で何かに臨めたことが少ないので、非常事態に慣れてしまうのはいいが、危機管理能力がみがかれているのかどうなのか、そこのところは難しい。

 また余談だが、多分二十年ほど前には、国立大学に勤務していて事務職員や教員の皆の日常を見ていると、本当に決まったことをきちんとする日常を死守することが求められていた。私はかねがね、暗殺者がターゲットの日常の習慣を調べようとしている映画や小説を見るたびに、私の生活を調べようとしたら、何一つ決まっておらず行き当たりばったり行動する人間だから暗殺者はどこのビルからねらっていいか、いつ待ち伏せていたらいいか全然決められずにさぞ困るだろうと心配し、レジスタンスの記録など読むたびに、どうせ拷問にかけられるなら毎日同じのは、それ自体が苦痛だから、できたら毎日ちがう拷問の方がましだとか、ろくでもないことを考えたりするぐらいで、当然そういうきちんと定まった予定通りの毎日は大嫌いでかつ苦手だった。なので、せめてひそかに自分を慰めていたのは、あんなに毎日毎年決まりきったことをきちんとするのに慣れていたら、何か突発事故が起こった時にあまりうまく対応できないのではないだろうか、その点私などはどんなとんでもない事態が発生しても別に驚かず対処できるだろうから、まあこういう人間もいていいのかもしれないと考えたりしていた。
 これが今ではまったく変わってしまった気がする。社会全体もそうなのかもしれないが、大学も毎年毎年がらりと制度やシステムが変わり、何ひとつ先が読めない。そんな中で私が何かの役にたったかというとそういうこともなさそうであるが、そうなったからと言って、私が好きな自由で気ままで快い緊張に満ちた世界になったかというと、あまりそういうこともなさそうである。

 ともあれ、最近の原発事故などを見ていても痛感するのは、絶対にまちがってはならない予定通りの日常と、いかなるとんでもない事態が起こっても平然とそれに対応できるというのは、危機管理においてはまったく矛盾することなのだが、どちらも絶対に欠かせない。そして、どちらにしてもこういう事故はどれだけ気をつけていても絶対に起こるし、起こった場合にどうするか、何を切り捨て犠牲にするかをきっちりいつも念頭においていなくてはならない。何かがあった場合に失うものがあまりにも大きくて耐えられないと判断したら、原発もそうだが、さしあたりはじめから、そんなものに手を出すのはあきらめた方がいい。
 事故は絶対起こらない、起こってはならないというようなものは、もうその時点で使えない。それに目を閉ざして完全な安全対策があるように思いこもうとする視点は、大学入試にはいかなるミスもあってはならないと信じこんでいる感覚と、いやになるほど似て見える。

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カツジ猫