「大学入試物語」より(14)
といった無駄話はおいておくとして、つまり受験生にとっては、もちろん万全の態勢で余裕をもって受験にのぞむのは当然だが、いくらそういうことをしていたとしても、やはり完璧な状況で試験に臨めるものではない。親が死んだり風邪をひいたり、電車が遅れたり受験票を忘れたり、消しゴムが汚れていたり机ががたついたり、隣の受験生が感じが悪かったり、あらゆることが絶対に起こるものである。そういうことはあたりまえで、あったらあったでしかたがないと思っていた方が、かえってきっと、気が楽だ。
私は他人をほめる人や集団というのが、あまり好きではなくて、敵であれ味方であれ「あいつは優秀なやつだ」などという人間を見ていると、何となくおまえは何さまだと思うのだが、いやつまり、人をほめるということは、自分がその人以上の存在だということを前提にしているとしか私には思えないので、これは相当失礼なことではないだろうか。しかし、そんな私がひねくれているのかもしれないと思わず反省したくなるほど素直に心から、学生たちはどうかすると「あいつは優秀ですよ、先生」と友人のことをほめあげる。「そうなのオ?」と私も一応、おとなしく聞いてはいるが、ときどきそういう優秀と言われる学生が(本人もきっといい迷惑なんじゃないかと思うが)、いつまでもあまりそれらしい成果をあげないような場合、周囲はそれに「あの人は優秀なんだけど、本当に運が悪くて」というのをセットでつけることがある。
何となく聞いていると、そういう人は高校入試のときは風邪をひき、大学入試のときは親が死に、発表会のときは事故にあい、決勝戦のときは失恋していて、いつも実力を発揮できないということらしい。大人げないとは思いながら私はつい、「それは結局、実力がないってことよ。運が悪いのでさえもない。私でもそうだし、誰だってそういう大事なときには何かが起こってそれでも黙ってがんばって、それなりの成果をおさめたか、その時はだめでも別の時にがんばって取り返してるので、言わないし、見ていてわからないだけよ。そんな大事なときに、体調は万全、皆が祝福、空は青空、みたいに完全に最高の状況でいられる人なんて、いるわけがなかろ」と言ってしまう。
そもそも小説や映画や漫画のヒーローやヒロインも、ここ一番の大事な時には必ずライバルの卑劣な行動やら、信頼していた仲間の裏切りやら、天変地異やら何やかやで、ベストなどとはほど遠い状態の中で戦いをしいられるのが常である。それでも勝つからヒーローなのだが、別にヒーローだけではない、勝者は皆そうなのである。すべてが完全に整った理想的な状態でなければ発揮できない実力なんか、実力の内に入らない。私なんか卒業論文書いてる時に父親代わりだった祖父が死んだがそのことさえも今これを書くまでは忘れていたし、大学入試の時には世界史か日本史か選択科目を忘れていて受付で聞いて思い出した。学会発表の日の朝、資料が一枚欠けていて、見知らぬ町のコンビニで数百枚をコピーしてホテルのベッドの上で数百人分の資料を綴じ直したこともあった。そういうことはすべて、ない方がいいに決まっているが、あったからってあわててはいけないし、それで実力が発揮できないいいわけにはならない。
私は大学入試のミスや不備を弁護するために、これを書いているのではない。そういうミスも含めて、あらゆる不測の事態、不利な条件を、起こってあたりまえと思い、乗り越える方が絶対に受験生にとって有利だから、それを知ってほしくて書いている。そういうミスがあってはならないから、私たちは万全を期すし、全力をつくす。しかし、それでも起こった時には、それを嘆くより恨むより途方にくれるより、とにかく乗り切るしかないし、それをするのは自分自身しかいない。そう決心しておくだけで、実はずいぶん気が楽になる。完璧な条件が保障されているだろうかと、ひやひやびくびくしているよりは、その方がずっと楽しい。