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「大学入試物語」より(2)

(とはいえ、ここで一言断っておくと、人の記憶はあてにならない。何しろ私は大学時代の学園祭のシンポジウムで中村・今井(源衛)両先生をお呼びして学生二十人ばかりで、文学の意味について討論したとき、司会をしたのだが、その時ひとりの学生がサルトルの「飢えて泣く子どもの前では文学は役に立たない」ということばを引用した後で、今井先生が「文学はその子どもの前で涙を流すことができるのです」と答えられた、と記憶していたら、同学年だった海老井悦子さんが、最近、九大女子学生の会の講演で、これを中村先生のことばとして紹介していたので腰が抜けた。
お二人の先生が別の場所で同じことを話されたということは、あまり考えられないので、私たち二人のどちらかの記憶違いなのだろう。私もたいがい嘘を覚えていることもあるので、あまり自信はないが、ただこの話を私はまだ若いころの授業ノートにも引用していて(ホームページ「板坂耀子研究室」の「授業ノートコーナー」の中の「文学は役にたちますか」)、まさかそんな若いころから記憶違いをしていたとも思えないが、絶対とは言えないし、結局のところ謎である。)

つまり教育というものは、一方通行であろうが対話形式であろうが、しょせんは教える側の裁量と計算と予定によって行なわれるもので、教えられる側と話し合って方法を決めるものではない。
サンデル教授の対話形式の授業がやたらともてはやされているが、あれにしたって、彼が考案し計画して実施している、ひとつの授業形態であって、そこには教える側の選択と意図が当然ある。あの講義の冒頭か途中に手を挙げて、「教授、このような方法では有益な教育的効果は得られないと思うので、やり方を変えませんか」と発言する人はいないし、いてもおそらく教授は受けつけないだろう。つまり、あの教室においては、あの方式と教授の姿勢に、受ける方が信頼して身をまかせているわけで、それは教授が一方的にしゃべりまくって質問さえもうけつけない授業と、その点ではまったく何の変わりもない。

別に私はサンデルさんの方式に文句があるわけではないし、あれはあれでもいいと思うが、ただ、やつあたり気味に言っておくと、これに限らず私がこのところの大学改革全般にわたって非常にすっきりしなくて気分が悪いのは、二重の基準とかどころではなく、まるっきり反対の方向が骨がらみにからまって実施されつつある気がして、いつも落ちつかないことである。サンデル方式がやたらともてはやされ、それに近いことをするのがいいということになって、そういう授業を要求されるのも、その一例だ。
要するに、いったい何が要求されているのか、さっぱりわからない。効率化と言われ、無駄をなくせと言う一方で、学生や社会には粉骨砕身サービスしろと言うのだが、無駄を承知で効率が悪いのを覚悟でするからサービスなのじゃないのだろうか。サンデル教授式の対話型授業なんか効率の点では最悪だ。教師の知っていること、考えていることをだ~っと時間のある限りしゃべりまくるのが、一番時間の無駄にならない。予習復習をして、それについて来れない学生は、どんどん脱落させるのが、一番時間の無駄にならない。実際どこかでそんな授業は、今でもきちんと行なわれているのではあるまいか。よくわからないがFBI職員の訓練とか。自衛隊の教育とか。クラシックバレーとか。そうでなければ、いくら何でも世界が崩壊しそうな気がする。

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カツジ猫