「大学入試物語」より(24)
まあ、人になめられるのが私の特技といつも言っているぐらいだから、かなり自業自得の部分もあるのだろうが、そもそも私の先生方と自分を同じように考えるのがとんでもなくまちがっているのだが、それをさしひいてもなお、ここ数年の私の周囲の学生は、私といくらしゃべってもつきあっても、私には関心がないし私を見ていないと実感する。私は快いマッサージ椅子で、便利なツールで、適当にあこがれて、適当に楽しんで、それ以上のものではない。あくまでも関心があるのは自分で、それも変化しようとか成長しようとか逆に身をもちくずそうとかいうのではなく、お皿にのせたプリンのように自分を大事に大事に扱って、言葉でも行動でも決して自分を傷つけない。だからひきこもって、だから人をいじめて、だから自殺するんだろうと何となく理解できる気がするが、さしあたりは疲れる。
それでも時間さえあれば、彼らともそれなりにつきあいはできたと思う。しかしそもそも、学生サービスの目玉のように持ち出されて押しつけられた、例のオフィスアワーとやら、あれで私はまったく学生とつきあう気がそがれた、というか、彼らから逃げる怠け心がきざした。
私は学内にめったにいなくて、つかまえにくいので有名だったが、実は相当の時間、研究室でも自宅でも喫茶店でも学生たちとしゃべっていたし、たがいの私生活や恋愛沙汰も洗いざらい聞いていた。私に限らずそういう先生は少なくなかったと思う。
オフィスアワーというシステムの意味が私は最初さっぱりわからず、わかったあともずっと思っていたのは、そりゃ一定の決まった時間、研究室にいて「相談があったらその時に」ですむのなら、こんなに楽なことはないということだった。実際そんな高給取りのセラピストか弁護士のような相談は、私は結局一度もしたことがない。
以前私はどんなに忙しくても、ヒマそうに研究室ででれっとしているのが自分の仕事と考えていた。何か悩みがあっても学生はいきなりそれを口には出さない。だいたい悩みがあることすら気づいていないことも多い。映画の話や雨の話や服の話や猫の話や焼き鳥の話や、まったくどうでもいいことをでれでれだべっている内に、重要かつ深刻な話題がぽろっと出てくるのだ。
時間を限ったオフィスアワーとやらで、しかも複数の学生がぶつかるかもしれない中で、歯医者の予約じゃあるまいし、「はい、三時から進路の悩み、五時からセックスの悩みですね」とか整理できてたら世話はない。そういうことを制度として思いつくのは多分、学生との相談をろくにしたこともない人だと私は、はなから確信した。