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「大学入試物語」より(3)

自分の学生時代を考えても、私は授業で教授と対話なんかしたくなかった。そんな時間は惜しいから、教授の知っている知識を時間いっぱい吐き出させ、しぼりとって帰りたかった。対話や討論は友人と下宿や喫茶店でやり、教授と飲み会や休憩時間にやった。自分が教える立場になっても、学生と毎晩遅くまで研究室でダベりまくり何度も徹夜し、授業では一方的に自分の知識をしゃべりまくった。その方が良心的な教育だと私は今でも考えている。
ついでにもう、これを読んでいる中には学生もいるかもしれないから、それもわかった上で、いくつか暴言を吐いておく。私だって「わかりやすい授業」や「対話型の授業」をした方が、しゃべる量は少なくてすむし、内容が薄くなる分、準備もしなくてすむし、まあ楽は楽でいいのだが、それでも時々しんから疲れるのは、「学生に発言させて下さい」「授業に参加させて下さい」とか毎時間の感想に書いてくるから、そうかよと思って質問したり意見を聞いたりすると、ろくすっぽ返事が返ったためしがない。あたりまえだが、私が知りたい、聞きたいことは学生はほぼ知らないのだ。つまり「質問して下さい」というのは「私にわかること、答えられることを質問して下さい」ということらしいが、自分が知っていることを言いにわざわざ授業料はらって授業を受けに来るのかよ。このへんの気分といおうか感覚といおうかが、私はまったく理解できないのだよ明智君。

ここで終わるのもあんまりだから、もう一つ付け加えよう。私はそもそも人生においても、できたら自分の生きた痕跡を何も残さず完全に他者の記憶から消えられたらどんなにいいかと感じている。自分の学問、社会活動などの結果は大いに残って世界や個人を幸福にしてほしいが、それを私がしたことは誰も覚えていないといいなあ。
授業や教育に関しても私が理想としているのは、まったくそれと同じことで、だから「あの先生はすばらしい」とか「あの授業は面白かった」というように語り伝えられるようでは、まだまだ名教師ではないと考えている。もう絶対に私にできるわけもないが、小中高でも大学でも、私が担当したクラスや授業では皆がどうしてか幸福で、いろんな知識がどんどん理解できてすばらしい発想がやまほど浮かんで、飛躍的になぜか成長できて、でもその原因は皆が自分自身にあると感じていて、私の教育や授業がよかったとかまるで思っていないし、「あの時の先生はえ~と誰だっけ」と誰ひとりとして思い出せない、というのが最高だ。
その年がすばらしくて、翌年になったら不幸だったりものたりなかったり淋しかったり実力が落ちたりしたら、「あの年だけどうしてあんなに、うまく行ったんだろう」と考えさせることになるから、それもいけない。私が担当したその一年に学んで身につけたことは、翌年もその翌年も生きてる限り持続して、いつそれを身につけたかさえ当人たちの記憶に残らないようでなければならない。
無理とはわかっていても、それをめざして私はこれでも毎年努力してきたのである。もうおわかりと思うが、そんな努力をしている人間にとって、授業評価ほど邪魔になり、私のめざす教育効果をそぐものはない。
私は授業において、便宜上自分に注目させるよう、いろいろ工夫をこらしもするが、それでも究極はいくら目立っても最終的には忘れられるということをめざしている。だから不必要に私や私の教育方法に注目させてはまずいのである。言わせてもらえば、私が何をめざし何を工夫して授業をしているかなど、学生ごときにわかるわけがない。わかるようでは教師ではあるまい、とさえ私は思っている。
つまり、いくら授業評価をしても学生に私の工夫や技術や心がけは絶対に理解できないし、わからない。しかしそれでも評価しろと紙を渡され記入をせまられれば、わからないままに学生は注目して、わかるわけのないことをわからないままに記入する。それはまったく空しいし、百害あって一利なしである。

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カツジ猫