「大学入試物語」より(30)
5 上意下達もほどほどに
先ほど、人員が少ないのをカバーしようとして、一つの授業をいくつもの名目で使いまわすという話をした。つまり私が江戸文学について話す授業が国語科の学生が受講すると「国文学概論」になり美術科の学生が受講すれば「江戸文化概論」になり国際科の学生が受講すれば「日本文化講義」になるといったたぐいだ(これは実際の例ではないが、だいたいこんなものだ)。同じ時間の同じ講師の同じ授業がそれだけの名称に化ける。
必ずしもこれが講義の質を下げるということはない。だがやはり何かとややこしいし、教える側からすれば多様な学生に一度に対応するからそれなりのストレスは生む。だから充分な人員がいれば、もちろんこんなことは避けたい。人手不足で要求される授業が多いから、こうするしかなくなるのだ。
ところが文部科学省のチェックでは、こういうのは教員の手抜きとみなされるらしく、それぞれ別の授業にするよう指導される。その結果ほぼ同じ内容の授業をそれぞれ数人の学生の教室で三回行うことになって教員の負担はそれだけ増える。まあそれは少人数の対象に配慮しやすい授業になるという点ではいいこともあるから(だからってうかうかしてると、今度は受講者が少ない授業は閉鎖して、不要な人員は削減するよう指導が来かねないという心配もあるが)、時間的拘束や疲労度は別としてあきらめてもいいが(ちなみにもちろん、そうやって授業時間数が三倍になろうが十倍になろうが、給与はまったく増えないし、特別手当が出るわけでもない)、私がいつも激怒し、他のおとなしい先生たちはため息ついたり嘆いたりするのは、往々にして、古典文学の演習などで、一年生と二年生、二年生と三年生など複数の学年を対象にした授業が、このような使いまわしの手抜きと解釈されて、「それぞれの学年ごとに別の授業をするように」と言われることである。それがしかも、「各学年の発達段階や成長段階に合わせた教育をしろ」のような感じで言われていると、本当にこんな指示をしてくるバカの胸倉つかんで下腹けりあげてやりたいぐらい腹が立つ。
少なくとも古典文学の演習で一番力がつくのは、上級生と下級生がいっしょに授業を受けることなのだ。教員の注意や指摘だけではなく、上級生の質問や指摘が一番刺激にもなるし勉強にもなる。上級生の方もまた、そうやって下級生の発表をチェックし、指導することで緊張するし成長もできる。いくら言ってもきりがないほど、この複数学年を対象とした演習の効果は絶大だ。他の学問や分野ではまたちがうかもしれないが、少なくとも私の携わる分野では昔もそうだし今もそうだ。それを各学年に独自に対応した演習科目を開設することが教育効果を高めると何の疑いもなく思いこんで、したり顔で指導してくる人間の神経というのが、私はもう、何か自分でもヤバいと思うほど、すさまじいくらい腹が立つ。
・・・と私がぶちきれまくっているのを読んで、きょとんとしている人の数ってもしかしたら相当多いのではないですか。少なくとも大学外の人だったら。
「何でそう言わないの」「どうしてそういう事情を説明しないの」と思うでしょう、誰でも。
ここ、赤字のゴシックの三倍活字で書きたいですが、そういうシステムはですね、「無い!」のですよ。
これだけピントはずれで現場のことなんか何もわかってない指示を片っぱしから文部科学省は下ろしてきて、その前段階でもその後でも、「これでどうですか? 不都合はないですか? おたくの大学の状況ではどうですか?」という問いかけも意見聴取もまったくない。皆無にない。文法的におかしくてもかまうものかと強調したくなるぐらいない。そういうシステムもルートもないのです。昔から。
いやもう、これってすごいと思う。私は逆に文部科学省の担当者にも同情しますけどね。現場の声も反応もまったく聞かなくて、どういう基準でどういう気分でそれなりに重大なシステムの改革や組織の改変に関する案を次々出していけるのか、本当にわかりません。星占いでもして決めているんでしょうか。秘密の諜報組織でもあって、ひそかに調査してるんでしょうか。その割には的外れなことが多いけど。
こうやって書いていて不安になるんですが、本当にないんですよね。私のまちがいってことはないですよね。あるという話も実態も知らないから、実際そうだと思うんですが。いくら何でもそんなバカな、どこかに何かのかたちできっとあるんだろうと誰もが思っているからこそ、そのまんまになってるのかもしれませんが。
私がある程度、そのことに確信が持てるのは、もう何十年も前の新任教員だったころ、ある地方の県立大学でいやというほどそれを体験したからです。