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「大学入試物語」より(34)

でも私は、自分のこのイライラが、学者固有の本能や精神だなどとは思わない。むしろ、(このへんから話がややこしくなるが、なるだけわかりやすく話そう)大学に欠落しているとよく言われ、身につけろと要求される社会的常識、企業の論理とこうした学問研究の手法はまったく共通すると感じる。
そして私が大学改革全般にはじめからずっとイライラむしゃくしゃしているのは、大学が社会性を持てとか企業のやり方を学べとか言われているわりには、要求されていることの数々が、どう考えてもちっとも社会や企業に通用することだと思えないことだ。

私はこれでも(っていばってもしょうがないが)昔はマルクス主義をかじって社会主義政権を支持していたし、今も完全にそれを放棄したわけでは多分ない。でも、その私も少なくとも今の日本でこれがもし資本主義の論理なら(そうかどうかは厳密にはよくわからないが)、こればっかりはやっぱり評価するのは、今の日本の会社や店舗や企業の顧客サービスが本当に行きとどいていて誠実で徹底的ですごいと思うことだ。客の言うことならどんな無理でも聞いて、望みの商品を作って提供してくれる、この能力とそれを支える精神はものすごいの一語につきる。その快適さと幸福を私たちは忘れ過ぎてはいないかと時々不安になるぐらいだ。
だから私は「原発がなくなって大丈夫なんですかね」という不安を、一瞬のかけらも感じたことはない。すでにそのきざしは見えているが、原発なしで今と同じ便利で快適な生活を送りたいと消費者が望めば、企業は絶対何とでもしてそれに応える。ウォシュレットからルンバから、自動ドアから薄型テレビから、これだけ消費者の望むものを作り上げてきた社会体制に不可能はないと、風呂を薪で焚き、トイレのくみとりを自分でやって畑にまいていた世代(まだほんの五十年前ですよ)としては確信しているのである。
もちろん、そこには切り捨てられたり落ちこぼれたりする人たちの存在もあり、便利だからと原子力に頼ってしまったのはちょっとやそっとのまちがいではすまないが、しかし全体として消費者だか庶民だか中産階級だかが望むなら、反論もなく文句も言わず、どんな無理難題でも聞くという企業の姿勢はもっと高く評価し感謝していい。というか、こんなにわがままを聞いてもらっていいのか、よく皆、平気でいるなと私はびびっているぐらいだ。

だがそれは、徹底して消費者のニーズをさぐり、「無理だ」「過大な要求だ」を絶対の禁句にして、その要望や不満に応じつづけて来た人たちの底なしのと言いたいぐらいの努力がある。それを最大の資料にして新商品やシステムの開発にとりくんできたから、それなりの結果も生まれたにちがいない。
大学改革において、私たちがやっていること、やれと言われていることは、どう考えても、それとまったくちがっている。
そこには現場の調査がない。大学教員や大学運営の実態や意識についての把握がない。だいたい、現場の構成員が討論し意見を述べてまとめたことを、報告し反映するシステムがちゃんと機能していないどころか皆無に近い組織や企業に、よい商品を作れるわけがないだろう。そもそも金も人も与えないどころかむしろ減らして仕事を拡大するという無茶な方針を、まともな企業が採用するとは思えない。
こんな打ち出の小づちをふれば何とかなるだろうというような、夢物語の改革は、大学教員や大学教育がよっぽどぜいたくをしてずぶずぶだらしなく肥え太っているから、少々しぼりあげても大丈夫という幻想でもあったのか。そしてまた、それとは少しちがうけれど、それなりに長年蓄積してきた学問研究の体制が、そういう無茶な要求に一応それなりに応えてしまう余力と底力を持っていたから、「それ見たことか、やればできるんじゃないか」のような幻想を文科省か政府か社会かに与えてしまったのか。だが、どっちにしても、いろんな意味で、そろそろそれは限界に近づいている。             (2012.8.28.)

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カツジ猫