1. TOP
  2. 岬のたき火
  3. 日記
  4. 「大学入試物語」より(9)

「大学入試物語」より(9)

ただまあ、このことにこれだけ皆が一応平気なのを見ていると、試験というものには、そのくらいのずさんさや運不運はつきもので、しかたがないと、誰もがあきらめているとしか思えないのだが、その一方でやれ開始時刻が数秒遅れた、試験官の足音や話し声がうるさくて集中できなかった、試験時間に本を読んでいる試験官がいた、などと大騒ぎになるから、何が何だかわからなくなる。まだらボケならぬ、まだらチェック感覚という言葉でしか表現しようもない事態が普通にまかりとおっている。
リスニング能力試験のあのおおらかさ、いいかげんさを認めるのなら、他のことの水準もそれにあわせてはどうか。
そもそも最初の方で私が書いた、緻密に一見見えていて、実はぬけぬけ、ゆるゆるの全国一斉入試の実態とはまさにここにある。試験に欠かせない公平性というものが、そもそものはじめから存在しないにひとしい。
完全な公平性など、あらゆる競技や勝負事には存在しないというのは私の持論で、大学入試ももちろんそうだが、それにしても、もちろんできる限りの公平さは保障するのが望ましい。
だが、規模が大きくなればなるほど、公平性は薄らいでゆく。それは当然のことである。
全国一斉大学入試の公平性など、誰が考えてもわかるが、実際にはないに等しい。それぞれの会場での環境の差、そこに行くまでの条件の差。学内の上等のカフェテリアで休憩時間をすごせる者、大学のすぐ前の喫茶店でくつろげる者、吹きさらしの渡り廊下で待機しなくてはならない者、自宅から行ける者、前日から泊りこむ者。受験会場での照明の明るさ、階段の多さ、暖房の効き方、雑音の多さ。それ以前のそもそもの家庭の貧富や出身地の雰囲気などはさておいて、当日のことだけに限っても、ありとあらゆる不公平と不条理の上に立ってセンター試験は行われている。

だから試験場の大学教員によって生じる不公平さなど、いちいち文句を言うななどと私は言っているのではない。これだけさまざまな不公平を背負って受験場に到達して着席している受験生全員に、せめてはその会場のその時間帯だけは、限りなく公平な環境を保障し、最大の実力をそれぞれに発揮させてやるのは試験官の義務だ。その使命感と情熱を持たない大学教員など、一人もいないだろうとさえ思う。それが充分ではなかったり不適当であったりしたとき、指摘し批判してもらうのは当然だし、ありがたいし、望ましい。
私が不快で当惑するのは、そういう指摘や批判の少なくとも私が目にするすべてが、「そもそもセンター試験というものは、根底からあらゆる点で不公平だらけのもので、決して公正なものではない」という、よく考えないでも自明のことをまるで忘れているとしか見えず、まるでガラス張りの無菌室の中で実施されているような、どこにも存在しない入学試験を、見えもしないのに見ているような錯覚に陥ったまま、その幻想だか妄想だかを前提に述べられているとしか思えないからだ。
私は、このような幻想や錯覚は、むしろ当事者の受験生や家族はリアルな現実を体感している分、持っていないのではないかと思う。彼らの苦しみにはむしろ無縁でひとごとの報道関係者や一般の方々が切実でない分、こういった錯覚をされている可能性がある。

とはいえ、そういう方々にしても最初に述べた通り、機密事項で取材しにくい限界の中ではやむをえないのだろう。こうやって考えていくほど、井上ひさしの戯曲「頭痛肩こり樋口一葉」に登場する気の毒な幽霊のように、誰を恨んでも責任者がわからず、祟るに祟れない袋小路に陥る。だが、ここはその対極にあるかのような松本清張「霧の旗」のヒロインのように、たとえ少々的外れでもやつあたりでも、とにかく恨みを晴らすことからしか何事も始まらないような気がするから、もうちょっとがんばってみよう。

Twitter Facebook
カツジ猫