「屍鬼」について。
まさか作者の小野不由美さんが、ここを見てるってことはないだろうけど、それでも悪口書きたくないのは、私はほんとに彼女の作品が好きで、「屍鬼」だって面白いと思ってる。ただ、多分この小説の、骨格でメインで命で、作者が一番書きたかったことであろう、「屍鬼」という存在、それを語り示す沙子と静信に、どうしても魅力がなく、どっかで見たような部分ばかりの、よせあつめのような気がして、静信の書く小説もそうで、だから、「ここが弱い、訴えないっていうのは、一番ここを書きたかった作者にしたら、つらいことだよなあ」と、自分のことのように、もどかしく思ってた。
マンガと読み比べたりしていて、だからどうだってことでもなく、特に確信があるってのでもなく、ただのひとつの可能性としてぼやっとこのごろ思いはじめたのは、それは小野さんがすごくただもう、うまい作家だということが一つの大きな、むしろ唯一の根拠でしかないぐらいなんだけど、この、いかにも作者の表現したい中心、作者の分身みたいな屍鬼って、実はフェイクで、小野さん自身、あんまりこういう存在、好きじゃないんじゃないだろうか? 異分子、異端、少数、異常、みたいなものって。
私は小野さんには「十二国記」ではまり、さかのぼって読んだ「悪霊」シリーズでも、悪霊のような無気味な恐ろしい存在が、すべてどこか悲しくて優しいのに心を打たれた。それで、小野さんは、こういう存在を切り捨てる人、自分と無関係に感じる人じゃないと、自然に刷り込まれた。今でもそうかもしれないと思う。でも、わからない。
異形の者へのいたわりや優しさ、共感はあっても、自分もまたその一人だという、圧倒的な実感、切実な恐怖感までのものではなかったのかもしれない。
そんなことは作者として、どっちでもいいことだ。でも、キャラママもよく言うように、西鶴やシェイクスピアや馬琴が偉大なのは、その作品が面白いのは、まったく認めていないはずの登場人物の心理や葛藤、理屈までを、自分のもののように、生き生きと書いてしまえるからだ。「屍鬼」の沙子や静信にそれを感じられない。ひょっとしたら、作者は自分をさらけ出すのを恐れて、充分に表現しなかったのかもしれないが、それでも、それがもしあったら、やっぱり見えてしまう気がする。「十二国記」が私を魅了したように、この人の本質は豊かで健康で力強くて前向きで、腐敗や欠損や汚辱や歪みとは、決定的に遠いのかもしれない。
くりかえすけど、それは作家としてほんとにどうでもいいことなのだ。でも、自分にないものでも、あるものでも、とにかくそれを描くからには、自分の中にあるそれと共通する部分を、どんなに危険でも養って育てて、共存しなければならない。
「屍鬼」は、多分その最大最高のテーマの異形の少数派という存在を、その悲しさを醜さを美しさを描いていない。描けていない。なまじうまくできているだけに、この作品に魅かれた読者は、異常な少数派への反感と恐怖、それと戦うことの使命感と高揚感しか感じないだろう。このことが私はとても恐ろしい。この小説を読んで、何の魅力も感情移入もできない屍鬼とその協力者に、私は共感し味方し支持せざるを得なくて、これはまったく、心からうんざりする作業ではある。
ずいぶん前のことになるが、宮部みゆきにも私は感心して、彼女の小説をさしあたり快く読みつづけていたが、次第に、今回とまったく同じことを…ああ、この作者は異常で世間の枠にはまらない少数派が基本的にキライなんだな、と実感することが多くなり、それが確信に変わったとき、私は彼女の作品を読まなくなった。
こういうことは、かなり読んでもなかなかよくわからない。また、わかったとしても、だからどうだということでもない。
しかし私はただ楽しみのために読むものだからこそ、そういうところで自分の趣味に合わないと、もううけつけない。
「屍鬼」は、阻害され迫害されるしかない存在を描こうとしたのが、力不足で敗北した試みだったのかもしれない。でも、そういう存在を描くのならなおのこと、そんな敗北は絶対にしてはならないのだよ。自分がそういう存在であっても、なくても、絶対に、それは負けちゃいけない戦いなのだ。