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「断捨離停車駅」内容紹介

まずは目次から紹介します。ひとつひとつはこのブログの「断捨離狂想曲」コーナーで見られますので、中身を確認したい方はそちらでどうぞ。

ただし、「許されたのかしら」以降の各編は、ブログでは紹介していません。500円で読める電子書籍には入っています。「まえがき」と「あとがき」の詩も同様です。

でも、お節介ですが、もし少しでもお気にいるようでしたら、電子書籍よりも少し高くても紙本のご購入をお勧めします。単に私の好みかもしれませんが、本の形になると、デザインや装丁も含めて、とても魅力的なしあがりになっているので、持っていると楽しいだろうと思います。

 まえがき
  ぐちメモ
  残り香のように
  語り部二人
  おうちのかわり
  板坂文書
  トルソの開く新世紀
  添いとげる服
  右、代表
  がたがたの小引き出し
  祖父に来た賀状
  ミルクの思い出
  落ちてもいいもの
  猫部屋の風景
  結局はモノで救われるのか?
  あらゆるものには歴史がある
  白い火鉢
  許されたのかしら(1)
  許されたのかしら(2)
  許されたのかしら(3)
  祖父の医学書
  聖域
  残された手帳
  過去へ、未来へ
  あとがき

昨日書いたように、この四冊のシリーズは、私が人生の前半をかけて集め、後半をかけてまとめようと思っていた、貴重ということばでは表現できないような本や資料を、「断捨離」が多分とてもお好きなご家族が、私のためにと思って、多くを業者に処分させ、廃棄してしまわれた事件から、私が何を考え、どのような日々を送ったかが、中核となっています。その事件によって、粉々に砕かれた私の生き方や考え方が、どんなものだったか、それを完璧なまでに踏みにじられて瀕死の事態になりながら、何とか生き延びた記録でもあります。

他の三冊にも、それに関する記事はありますが、この一冊には、まさにその事件が起こった当時の場面と、その前後の状況がリアルタイムで精確に書かれています。この事件を細かく知りたい方には、これ以上ない現場の資料報告です。そういう意味では、ぜひお読みになっていただきたい一冊です。

まだ衝撃から立ち直れず、前後の見通しも何もつかないままに、私はこの一冊をまとめました。それを表現した、「まえがき」と「あとがき」の詩を、ここで、紹介しておきます。

 まえがき

今の私の気分を語るなら
 ひとりでに浮かび上がる風景は
 誰もいない小さな駅のホームのベンチに
 一人で座っている私だ

空は晴れていて風はあたたかい
 回りは田んぼが広がっていて
 あちこちに白い壁の人家が見える
 どことなく人の気配はあるが
 見渡す限り、生き物や車の姿はない

べたな情景だが遠くには海が見える
 あたりは桜が満開で
 まだ開いたばかりなのか
 花びらもほとんど散らない

単線のレールがホームの左右に長くのびる
 自分がどこから来たのか
 どこに行くのか私は知らない
 めざしていた先にはもう何もなく
 そのために出発した場所ももう忘れた

自分が誰なのかもわからない
 幸福か不幸なのかもわからない
 列車はいつか来るのだろうか
 もう永遠に来ないのだろうか

やがて、日は暮れるだろう
 その前に駅を離れて
 桜の下で眠ろうか
 それとも田んぼ道をぶらぶら歩いて
 海の中へと入って行こうか

私には今、何でもできる
 きっと、どこへでも行ってしまえる
 自分が誰なのかもうわからない
 それが幸福か不幸なのかもわからない

この本を作り始めた時点での私の気分は、およそこのようなものだった。そして、本が完成したころには、その心境にも少しは変化が生まれていた。少なくとも狂気や無気力に陥ることは避けられた。思い切り悲しみ、思い切り苦しみ、思いがけず与えられた、大小いくつかの体験に、あちらこちらと、心をゆさぶられながら。

 あとがき

そして、また夜が来て
 小さな無人駅は藍色の闇に包まれる
 遠い潮騒の音
 夜目にも白く桜の花
 あちこちの家に黄色い灯りがともる

私の目は老いているのか
 見上げても、空に星は見えない
 けれど強い光がひとつ輝いて
 ゆっくりと空を動いて行く
 特別に明るい星か
 人工衛星か飛行機か
 黒っぽい広い空を横切って
 ためらわずそれは進んで行く

誰かがまだ飛んでいる
 何かがまだ進んでいる

目の前の線路が小さく震え
 虫のようなひびきが潮騒とまじる
 こんな深夜にどこかから
 列車が近づきつつあるのか

華やかにまぶしく通過する特急列車か
 長い長い貨物列車か
 ここが終点の回送車か
 それともここのホームに停まって
 また先をめざす夜行列車か
 酔った男が新聞とビールを持って
 窓からのぞく寝台車か

どちらから列車はくるのだろう?
 過去からか、未来からか
 本当はその二つは
 暗い山の向こうのどこかで
 ひっそりと、つながっているのかもしれない

私には何もわからない
 自分がこれからどうするのかさえ
 ただ、ここに座って、前を見つめて
 すべてをなりゆきにまかせている

不幸な事件が起こったのは二月の末だった。三月の末まで、ほぼひと月、私は何とかこのあたりまでは立ち直ったらしい。
 何が私を狂わせず、何が私を無気力にさせなかったのか。
 時間にしては短い、しかし命取りにもなりかねない、この危険な時期に、私を支えて、乗り越えさせてくれたものとは何だったろう。

それは、こうして書いて、読んでみて初めて気づくことも多い。たとえば、「語り部ふたり」や「祖父に来た賀状」、「祖父の医学書」に登場する、私の一家、板坂一族に共通した、人を憎まず許すモラル、何があってもくじけないで前進する底力、人の良さとユーモア精神、無駄なことにこだわらない冷静さ、などの血筋というか血脈というか、そのようなものだった。齢七十を超えて初めて私は、配偶者として流れ込み混じり合った人たちの血も含めて、一族に共通して培われてきた、その精神を自覚した。この人たちの一部であること、その流れをくむ者であることを実感し、それが自分を守り支えていることを知った。

また、最後の「残された手紙」「過去へ、未来へ」に書いた、わが家に残された戦時中の近くの特攻隊基地にいた若者たちの遺品、それが知り合いの社民党の男性の手を経て、メディアがとりあげ、遺族の方の手にわたった経緯は、歴史の流れ、社会の動きの中で、自分が奪われ失われたものの中で、わずかに伝えることのできたもの、果たせた役割を実感したことで、大きく、強く、救われたことも決して見逃せない。

これらによって、立ち直れた一方、同じ時期に、くじけて、たたきのめされそうになったのは、救うことのできなかった命を目にして無力感に打ちひしがれた危険な体験だった。それは私が飼った猫たちのなかの一ぴきにまつわる物語で、その他の私が飼ったさまざまな猫たちと、その経緯が、この本ではほぼすべて登場している。去年の夏に死んだ、最後の猫カツジと、最愛の猫と私が公言し続けているキャラメルをはじめ、シャム猫もどきのミルク、白黒猫のマキ、灰色猫のグレイス、三毛猫のシナモンなどが、どこでどうやって暮らして、死んだかが、「ミルクの思い出」「落ちてもいいもの」「猫部屋の風景」「結局はモノで救われるのか?」に記されている。外猫だったしまおは、文芸社から出版した「断捨離狂想曲」に登場し、初代猫のおゆきさんは、「断捨離潜水艦」の「ハイタッチ(3)」に、ペットの中では唯一の犬であるスピッツのバロンは、「聖域」に登場している。

それ以外の章では、「右、代表」が、私が歴代ペットとともに、深く愛した歴代の車の中から、一台を中心にとりあげて、彼らとの関わりや、ともに過ごした日々を記したもの。多分、車について書いたのは、全冊の中でこの章のみだ。

あと、「残り香のように」「おうちのかわり」「がたがたの小引き出し」「白い火鉢」などは、もう手放した、郷里の古い家二軒にまつわる思い出や歴史にふれている。私が高校生のころすごした部屋の写真などがなつかしい。

その他の「トルソの開く新世紀」「添いとげる服」「あらゆるものには歴史がある」は、洋服や寝具などにまつわる話で、この一冊には比較的少ない、本来の「断捨離」もののテーマをあつかう、まあ言ってみれば楽しいのんきなお話である。私が地域のひととともに市長選や社会的な活動をしている様子も、ちらほら見える。

最初に述べた、貴重な資料を廃棄された絶望的な日々のことは、「許されたのかしら」の三つの章に書かれている。災害や犯罪の記録、または闘病記まがいの悲惨な内容を読むのがきついと読むのをやめていただいても、恐いものみたさや自らの参考のため、あるいは断捨離の生む危険や問題点を把握しておくためなどの理由から、あえて読まれても、私はかまわない。ただ、全体の予告にも記したように、何らかのかたちで、特に他者の「断捨離」に関わる方は、ぜひ一度目を通していただきたくはある。断捨離は、こういうかたちを生むこともあり、こういう要素を秘めているものでもあるということを、どこかで心にとめておいていただきたいのだ。

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カツジ猫