「草原の子ら」を読み上げた
そうそう、台所の窓辺の十三年目のシクラメンも、次々つぼみをつけています。冬にはもう葉っぱ一枚もなく枯れ果てて見えたのが、嘘みたい。
ごくありふれたプラスティックの鉢だったから、とうとう最近底が割れて、水が漏るようになったのね。植え替えるのも心配だったから、スーパーで卵を買う時に入ってたケースにさしあたり入れてやってます。あふれた水の量も見えるから、これはなかなかいい。ただ、この卵ケースがどのくらいもつかわからないから、ついつい毎回このケース入りの卵を買ってしまうのよ。そこが問題。
最近、子どものころ読んだ古い岩波少年文庫を読み直すのにはまっている。どんな本でも最後まで一応読んでた私には珍しく挫折して途中でやめていた、ジンギス・カンの孫二人、クビライとアリク・ブカの兄弟が主人公の「草原の子ら」をついに読了。いや、今読んでも実に硬派で手堅い、媚のない筆致で、しかも慣れないアジアもの、科学的精神にはそぐわない神秘的な現象の数々(だいたい、今にいたるまで私はインドだの日本だのアジアだの東洋だのを欧米の作者が映画や小説にするとき、二言目には神秘の謎のと言いたがるのが好かんのだ。そこに住んで、そういう怪しげな迷信の、最も罪深いいやらしいかたちと日夜対峙している、現地民の少数者合理主義者の身にもなってくれ。だから、「ロード・ジム」も「黒水仙」も「シェリタリング・スカイ」も、ちっとも好きになれなかったんだってばさ)のオンパレード、と来た日には、当時の私が拒絶反応起こしたのも無理はない。今だってそこはかとなく、ばりばり欧米のドイツ人が、変にびびってあこがれて、自分にわからんところは全部一角獣だの魔術だので塗りつぶしてごまかしたんだろうが、という気分がちらつくのが否めない。科学と文明が野蛮と古代を凌駕してゆく過程や手段として、こういう神秘的方法と添い寝しながら影響を広めたのも、事実かもしらんが、事実なんだろうかという疑いも抜けない。いやー、私はつくづくもう、アジアだの日本だのが、異国からも自分たちでも「神秘の国」扱いされるのが好かんのだ。田舎で育って、その正体を知ってるだけにな。
豪華絢爛たる東洋の文明にも、草原を疾駆する騎馬民族の迫力にも「作者はわかってんのかな?」と感じることが多くて、魅了されない。どうせ小説なんだから、変なリアルさ追求せずに、自分らしく空想を羽ばたかせてくれりゃ、まだましだったのかもしれないのにさ。
当初の重要人物が、テントの移動のときの事故で、都合のいいとき、あっさり死んでしまうのは、さすがに笑っちゃったけど。
でも、今思えば、母は多分これを読破したし、魅了されてたね。「どんどん版図をひろげて行って大陸を征服してしまう、あのスケールとスピード感」みたいなことを何か言ってたっけ。自分自身が南京生まれの中国育ちで、揚子江の水が海に溶けて茶色から青になるのを見ていたり、「地平線が見えない国なんて」と日本をバカにしてた人だから、そういう意味での共感があったのかもしれない。もっとも晩年には何度めかの中国旅行から帰って日本を見て、「緑が美しい」と感動評価していたから、また気分も変わっていたのかもしれないが。
とにかく、「アラビアのロレンス」の砂漠、「風と共に去りぬ」のアトランタやタラ、「ウェスト・サイド・ストーリー」のニューヨーク、「赤毛のアン」のカナダ、「隊長ブーリバ」のウクライナ、みたいな空気感が、ちっとも伝わって来なかった。そういうのはすべて幻想のイメージかもしれないんだけど、でもそれで上等だと思うのよ、私は。それを与えてくれるだけで十分だって思うのよ。