1. TOP
  2. 岬のたき火
  3. 日記
  4. 『大才子・小津久足』感想(12)

『大才子・小津久足』感想(12)

はじめっから言い訳

言い訳からはじめると、そろそろこの本も半分を過ぎて名残り惜しくもなったし、そもそも準備不足だと文章ってどんどん長くなるものなので、今回はいつにもまして、関係ないようなことから、だらだらと話を始める。
 とは言え、言い訳をつけ加えると、そうは言っても目的は、この本をぜひいろんな人に読んでいただきたいということにつきる。
 前にも書いたように、この本の三、四章は他にもまして内容がぎっちりつまっているので、きちんと整理してはあるのだが、人によっては読みにくいと感じるかもしれない。で、あくまでもそういう人のために、こういうあたりをめやすに読んでいただけたら、いいんじゃないかという、すごくおせっかいだし見当違いかもしれない大きなお世話だ。
 多分、一回では終わらないだろう。すみません(笑)。

「鉄砲を撃ってみるんです」

昔のことで前後を覚えていないが、何かの宴席で、多分ほろ酔い気分の中村幸彦先生が、論文の書き方などを私たちに話して下さっていた。
 「鉄砲を撃ってみるんです」
 先生はそうおっしゃった。いろいろ調査し資料を集め、もうこれ以上は手がかりがないというまで進めたら、その後は推論でもいいから勘にまかせて、結論を書くしかない、書いていいのだ、それが論文になる、というようなことではなかったろうか。

怠け者の私は一生の内の全体どころか四半分以下だって、研究にも資料調査にも捧げていない。だから、この年になって、「江戸文学だか江戸社会ってのは、ものすごく理論的で理屈好きな傾向があるんじゃないか」とか、「洒落本は遊び方の教科書じゃなく笑いが目的って言うけど、そういう、生き方の教科書みたいな面もやっぱりあるんじゃないか」とかいう、定説の反対やら定説にも何にもなってないことやら、いくつか思いついていても、絶対死ぬまでそれを証明する調査をするような時間はないし、こっから鉄砲撃とうにも、ロンドン塔の鐘楼のスズメをテムズ川の河口からねらうよりもっと望みはない。

それでもたとえば洒落本については、やっちゃいけないヘマな失敗ばかりする半可通を描くから教科書にはならないと言うけど、そもそも吉原でもどこでも、非の打ち所ない「通」の生き方なんて、書きようも描きようもなかろうから、結局「これはやっちゃいけない」「これはだめ」みたいなことを書きまくって重ねまくって、バックの黒を塗りまくって行って残った白い部分で理想の姿が見えてくるような教え方しかできないんじゃないか、とかいうことぐらいはつぶやいて見たりする。

生きる基準は何ですか?

授業で学生たちに、そんなことを洒落本について、ちょこっと話したりするとき、自分の身にひきつけて具体的に考えてもらうために、「別に吉原とか通とかに限ったことじゃなく、今の、普通の暮らしでも、『これだけは守ろう』とか『これだけは譲れない』とか『これだけはするまい』とか思ってる生き方ってある? つまり、理想にしてる、めざしてる生き方みたいなのってある?」と聞くことがある。「『ごはんつぶを残さない』とか、『友だちに金を貸さない』とか、『人を殺さない』とか、もう、どんなのでもいいけど」とか。

サマセット・モームは小説「人間の絆」の中で、悩める主人公フィリップに、当座の生き方の基準として、「おのれの欲するところに従え。ただし角の向こうのおまわりさんの存在を忘れるべからず」と決めさせた。

私の母は、「皆が同じ意見になったら、とりあえず一人でも反対しておけ」だの「強い者とと弱い者が争ったら、必ず強い者の方が折れなくちゃいけない。だから、弱い敵には妥協してもいいけど、強い相手とは死んでも戦え」「何かいいことをしたら、それを他人に知られてはいけない」だのと私に教えた。「誰かの悪口を言ったり批判したりするときには、相手が反論や弁明をするときにこちらに連絡できるように、こちらの名前や住所を必ず明らかにしておけ」というのもモットーで、実際にそれを守っていた。所在を明らかにできないなら、抗議も批判も悪口もしてはいけないと決めていた。

私自身は、そういう母の教えを何となく基準にしていて、あといつの間にか守っていたルールは「私が頼んだら断れない相手には、決してものは頼まない」ということだった気がする。

特定の宗教や思想の、明確な教理や教義でなくても、人は皆それぞれに、そうしたルールを何となく自分に課しているだろう。「世間の目」でも「上司の評価」でも「週刊誌の占い」でも「カウンセラーのアドバイス」でも。それのごった煮、つぎあわせでも。意識的でも無意識でも。そこには自分の審美眼や好みや嗜好や体質や、そういうものも何がしか、当然反映されるだろう。

文学研究にはいろんな方法があるわけだから、作者や作品の分析や鑑賞に、いつも常にそんなことが必要とは、むろん思わない。しかし、やって行くとどこかで、それにからんで、作者の守っていた生き方、人生を支えていた基準について、考えたり感じたりしなくてはならぬ局面もある。少なくとも私はそうだった。特にめざしていなくても、ひとりでにそれをうかがおう、作り上げようとしていることが多かった。意識してそれを拒否する方法論もあるだろうが、意識しないで中途半端にやろうとすると、結局、恐ろしいことだが研究者自身の持っている器量や枠組みや知性や体験や思考回路の範囲内で研究対象をまとめてしまうことになりかねない。偉大だったり複雑だったりする作者や作品を、研究者の生き方の範囲でしか理解も伝達もできないことに、私はいつも、あるおののきを感じていた。世界を救おうとも幸福な結婚をしようとも別に望まなくても、文学作品を研究し理解するために精進潔斎し清濁併せ飲み、勇敢であり高邁であり多彩であり良心的でなければならないという強迫観念さえあった。できたかどうかは、おいとくとして。

そういう点では文学研究も小説創作も、どこかで私にとって、神に近い役割を果たしていたのかもしれない。巫女や神官が身を汚して神通力を失うようなことは避けたいと、いつもどこかで心がけていた。

他人の空似

親子兄弟姉妹夫婦師弟飼い主とペットがたがいに似てくるということは、しばしば言われる。でもどうかすると、研究者と研究対象も似てくる。
 以前、菱岡君ではない教え子の一人の、若い研究者の論文を批評するのに、「多分あなたの考察はまちがっていないとは思うが、何となく、この論文で浮かび上がる作者の人間像が、あなたに近いような気がするのが気になる。まあ、よくあることだけどさ」と言って、たがいに笑ったことがある。
 前にも言ったように私は最初に研究対象にした貝原益軒の、経歴や日常や作品や哲学が、ほぼ統一されたものとして把握できたのは幸運だったと思っているが、だがしかし、もしかしたら、そこに見える益軒の人物像は何のことはない、私自身の投影じゃなかろかと苦笑することがあった。目下の者や周囲の者は皆愚かで劣っているとあきらめて、だから皆に優しくなるのや、自信のあることほど、いやらしいまでにへりくだって「私はバカでわからないんですけど教えていただけますか」風の防護壁と堀とバリケードで固めまくった自説の開陳をするのや、その他あれこれあれこれあれこれ。

でも、これにも相互作用があって、研究対象の資料や文章を読みまくり、その作品や生涯を鑑賞し追体験する内に、研究者の方が影響されて研究対象に似て来てしまっていることも当然かなりあるだろう。何百年も前にとっくに死んで消えている人間をあなどってはいけない。自分に触れて探ってくる研究者を自分に似せてしまうぐらいの力は、その肉体がミイラになろうと灰になろうと、彼ら彼女らは皆持っている。

菱岡君は聡明で冷静だから、この本も久足に同化した幻想にはなっておらず、ほどよい距離を保ちつづけている。(よくこんなことができたものだ。)しかし、そういう節度を保ちつつ、久足という人間の全体像に近づこう、再現し構築しようという努力は怠っていない。いくつもの名前を使い分け、その中でも「雑学庵」と自称して記した、とりわけ多様な雑然としたさまざまな文章を使って、久足の多様な側面を結び合わせ、その人となりをつかみ、読者に示そうとしている。「鵺学問」を推賞し「乞食袋」につめこむように知識を吸収した久足に対してそれを試みるのは、それこそ紫宸殿の上を飛びすぎるを鉄砲だか弓矢だかで撃ち落として剥製にするような試みだが、この第四章はそれに挑戦しているのだ。

Twitter Facebook
カツジ猫