『大才子・小津久足』感想(17)
毒を食らわば皿までも
いよいよ終章である。
本全体のキャッチコピーなどにもなっている、主として四つの名を使い分けた小津久足の、そのように名乗っていた理由を説明して、それがすなわち江戸時代を理解する大きなカギにもなるのだという、すっきりとした、でも中身は濃い内容だ。
負けずに、この感想も無駄なくスマートにまとめたかったのだが、これまで読んでいただいた方にはおわかりのように、私にはしょせんできない芸当だった。言いたいことが例によってありすぎて、どうにもまとめようがない。
紹介する本よりもだらだら長いというのも、どうかとは思うけれど、もうどうせ乗りかかった舟、食らいかけた毒というやつで、せいぜい思い浮かんだことのすべてを書いてしまおう。まあ、こういう無駄話の数々をながめたあとで、このみっちりと無駄のない終章をお読みになれば、それはそれでまた、理解の手がかりになることも、ひょっとしたら、あるかもしれない。
終章もふくめて、この本を読むことで刺激されて、思い浮かんだいろいろな雑多過ぎる感想を、僭越ながら三項目にわけてみた。ほとんどが例によって自分語りである。申し訳ない。
実はすべてが説明資料
ずっと以前に『私のために戦うな』を読んでくれたある同僚から「板坂さんて露出狂だね」みたいなことを言われたことがある。いやまあそのように何でも言い合う仲のいい信頼できる人だったが、映画「キャバレー」のライザ・ミネリ演ずるヒロインのことを、「魔性の女で関わったらやけどするタイプ」と言ってたと人づてに聞いたことがあって、私はあのヒロインのように不器用で清潔で真面目な女性もめったにいないと思っていたから、へえ?と感覚のちがいに驚いた。まあ、そんなことだから、ライザ・ミネリなみの誤解曲解をされたのは誇りとしか感じなかったし、露出狂なんて言われると何だかわくわくしてうれしかったものだから、別に反論も抗議もせず、笑ってそのまますませてしまった。
だが、これは授業でもそうなのだが、私がおっそろしく超個人的なことを暴露するのは、たった一つの理由しかない。すなわち、主張し説明し証明し、よりよく理解してもらおうとする手段としてしか、私はそういう赤裸々な告白を口にも文字にもしたことはない。それは七十六年の人生をわざわざ振り返らなくても断言できるくらい、私はそういう教材や資料や、国会質疑のパネルのように利用することでしか、自分の個人的情報は明かさない。支持政党やマスターベーションやその他もろもろ常人が口にしないことを平気で人前で明かすのは、そうやって刺激を与えて注意喚起したり、具体的なイメージを与えたりする以外の意図はない。
当然予測できることだが、人によっては、これで私のことを「あけっぴろげな気さくな人」とか「何でも言い合える親友」とか思ってしまうこともある。気をつけていれば何日も徹夜でしゃべっても私が実は肝心なことは何も言っていないのはわかるので、今度は「中身のない人」「本心がわからない人」と言われかねない危険もあるが、そもそもですね、個人と関係がないような、しかも人を傷つけないような無駄話を千夜一夜続けてもたがいに退屈しないぐらいのつきあいができないんじゃ、おたがい困るんじゃないでしょうか。
それについては、あとでまた述べるが、さしあたり確認しておきたいのは、これまでの感想も全部そうでしたが、一見関係ないような自分語り、無駄話などのすべては、あくまでも、菱岡くんのこの本を、より楽しく、わかりやすく、読んでいただくためのものです。そうなっていなかったら、これはもう、ひとえに私の未熟さです。
ということで、以下、内容を三つにわけます。
1)江戸時代について
2)分人主義について
3)紀行文学について
きっと、この本の第五章よりは長くなりますが、書き手と同様、もうやけっぱちでお楽しみ下さいませ。