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『大才子・小津久足』感想(19)

【敵はいずこに】

渡辺京二氏『逝きし世の面影』は、幕末に日本を訪れた外国人の旅行記類から、当時の日本の人々の生活や文化を評価し賞賛している記事を紹介して、今では失われてしまったよき時代を回想しようとしているもので、江戸時代の見直しに大きな役割を果たした本と言っていい。中野三敏先生も、「もちろんそういう時代はもう来ないだろうし、復活を望むわけではないが」と断りつつも江戸時代を評価する文章を記されるとき、しばしばこの本に言及され高く評価しておられたように思う。

もちろんリンクした記事にあるように一定の批判もあったし、渡辺氏自身がこの本の巻き起こした「逝きし世」の見直しに当惑されていたようだが、それでも一時期この本は文学者のみならず、いろんな思想家や知識人に熱狂的に歓迎され、「涙した」とか言っていた人さえいたような記憶がある。

私も読んで面白かったし、自分が江戸紀行を読んでいて受ける市井の人々の印象と全然違和感もなかったので、むしろ「何を今さらこんなことを知って驚いているのだ」という印象しかなかった。逆にそれだけ「江戸時代は悪」「日本は後進国」というイメージに現代の知識人階級はあえぎ苦しんで誇りを持てずにいたのか持ちたかったのかと、そっちの方にあきれた。自民党が言いたがる「自虐史観の日教組教育」とやらは、そこまで成功していたのかと思うが、少なくともそれは私には、さっぱり浸透していなかったらしい。

実は私は中村幸彦先生の名著『戯作論』も最初読んだとき、どこがいいのかよくわからなくて、それは多分に序文で先生がいやにへりくだって用心して弁解しておられるその姿勢にまずとまどったからで、それが全体のあちこちに常にほの見えているのが気になってしかたがなかった。先生は「何の意味もない文学」である戯作を懸命に弁護して、その意義を説いておられるのだが、私はそもそも文学なんて(ついでに言うなら人生だって)何の意味もなくって面白ければいいので、それ以上やそれ以外の何を求めるんだとずっと思って生きて来たから、「そんなあたりまえのこと、今さら何を、それもこんなに遠慮しながらくり返してんの」「中村先生はいったい何と戦っておられるんだろう」と思えてしょうがなかった。

今思えば、それは戦後民主主義とともにあったプロレタリア文学(軍国主義愛国主義の文学だってそれは同じことだったろうが)の「文学は人生に役にたたなくてはいけない」みたいな思考の蔓延と定着に対してだったのだろうし、中野先生もまた、その戦いを引き継いでおられたのだと私にも少しはわかる。
 だがずっと、そういう点では、お二人が戦っておられた敵が、私には見えていなかった。そもそもどのくらい広範囲な人にけんかを売ることになるのかわからないまま発言すると、私はいやしくも知識人とか文化人とかいうものが、そんなに世間の風潮や時の流行に染まって流れて縛られて、過去や現在や日本や外国やその他のもろもろについての固定観念を自分の枠組みとしてとりいれてしまって、劣等感や優越感にあえいで生きていられるということが、まるでもう、まったく信じられなかった。

だが、そう言えば、と思い出すことはいくつかある。たとえばずっと関わってきた「九条の会」のミニ講演などで、「私の話は評判が悪いんですよ」といつも笑って言ってまわっているが、私がうっかり戦争反対やその他の常日頃皆が信じて守っていることに、ちょっと抵触したようなことを言うと、多くの人が不安がりいらだつ。ネタは少々変わっても、同じ落語を聞くように決まった展開と落ちを耳にする快感を多分誰もが求めているのだ。それで心が癒やされて、新しい戦いに向かうパワーがつくのだろうが、ひとつまちがえば、それはドラッグなんじゃあるまいか。

またかなり前過ぎて何の座談会か忘れてしまったが、景観だか自然保護だか公園だかそういう関係の専門家の方々との話し合いで、実は内容も細かいことは忘れてしまったが(笑)、何しろ「日本人の傾向として」どうちゃらこうちゃら、「江戸時代の特徴として」どうちゃらこうちゃら、何かそんな風な話題になったとき、居並ぶそのすじの専門家の方々は皆、そのへんの週刊誌でいつも読むような定説をこぞって述べられた。私は思わず自然に「そうですかねえ、私の印象じゃそうでもないんだけど」と、紀行を読んでいて感じていた、それと反対の実感を述べた。そうしたら反論どころか、誰もが「そう言えばそう」という流れで話し始めた。多分、皆もうすうすしっかり私と同じことを感じていたのだが、定説みたいなものを否定して口にするまでの気持ちになれずにおられたのだろう。最近「空気を読む」ことの功罪が指摘されているが、そんなの私の知る限り、昔からどこででも皆、空気を読みまくって生きていたので、今それがやたらと問題にされるのは、意識されはじめただけまだましなのかもしれない。

だから、そういう私に見えない敵の中で、『逝きし世の面影』が果たした役割の大きさは多分必要だし、正しかった。だが、この本についてはもうひとつ、私の気になることがある。

【蹴られていた犬】

これももう十年以上前になるかもしれない。大学で私の指導学生だった一人が卒論で「江戸時代の動物の描かれ方」に関するテーマを選んで来た。いくつか参考文献を教えた中で私は『逝きし世の面影』もあげて、日本人が動物にとても優しいという外国人の記述がたくさん例にあがっていたことを教えた。

私がそういう時に学生に強調するのは「孫引き(誰かが引用している文章をそのまま引用して、原文を確認しないこと)は絶対にするな。可能な限り、もとの文章を探して正確な引用かどうか確認せよ。まちがっていたら、その原因もつきとめろ。作者が引用するのに使った本がまちがっている可能性もあるから、できたらそれがどの本かも確定せよ」ということだ。皆がこれをやれるわけでもないが、かなりの学生はきちんとやってくる。

その学生も普通にまじめだったから、手抜きをせずに原文を探してつきとめて、確認して行った。しかし何と言っても卒業論文にかける時間はそうそうないので、私とも相談して最終的には『逝きし世の面影』に集中して調べた。外国語の文献はさすがに無理だが、日本で翻訳されている文献については全部チェックしたはずだ。ついでに、渡辺氏が引用した部分以外にも卒論テーマに役立つ部分があるかも知れないからと、私が言ったか彼女が判断したのだったか、とにかく引用されていた本の他の部分も彼女は読んで動物関連の記事をチェックした。

彼女は別に研究者にもならず院にも行かず、普通に就職して行った。卒論はパソコンのどこかに残っているかもしれないが、今は見つけられない。また、その時にすぐにやるべきだったのだが、私自身は彼女とちがって渡辺氏の引用した本を見ていない。だから、ここで書くのはためらいがあるのだが、おそらく彼女の作業と私の記憶は信用できると考えて記すと、渡辺氏が引用した「日本人は動物に優しい」ことを示す引用部分以外に、犬が蹴りまくられているなど「日本人は動物に優しくない」証明になる記事もその本の中にはあった。一か所は確実だが、それ以上あったかもしれない。それを渡辺氏は引用していなかった。紹介もなかった。

「自分の論に矛盾する都合の悪い資料は無視する」ということは、少なくとも私の卒業論文やレポートでは絶対に許されない。さすがに不可にはしなくても、また不注意や力不足でそうなったのはやむを得ないが、わかってやっていて、いわば都合のいいように資料や事実を選択し隠蔽したら、文学だろうとなんだろうと、それはもう論文ではなく研究ではなく調査ではなく、せいぜいが努力点しか与えられない。ことと次第では犯罪で、処罰の対象にさえなる案件だ。

最初にあげたリンクした資料を読んで、渡辺氏のこの本が、もともとは連載されたエッセイであり、それをまとめたものであること、これほどの反響を呼ぶことはご本人も予想しておられなかったらしいことなどを知った。私も、これがエッセイとしての読み物だったらまあかまわないんだけどなあ、と何度かぎりぎり考えて妥協していた。それでも、もしも私だったら、本にする段階で、注釈のかたちででも「これに反する記述も散見するが」ぐらいは書いとくがなあと思ったりもした。何しろこれがまるで学術論文のようにメディアで扱われてしまったのは「江戸しぐさ」と同様と言っていいぐらい、私にとっては後味が悪かった。確認を怠った自分が、それを今まで指摘せず放置していた件も含めて。

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カツジ猫