息が苦しくなる
こんなことを言わせておくのか。
何から何まで、最低だ。
LGBTQなど性的少数者や同性婚のあり方を巡り、経済産業省出身の荒井勝喜首相秘書官が3日夜、記者団の取材に「僕だって見るのも嫌だ。隣に住んでいるのもちょっと嫌だ」などと差別的な発言をした。首相官邸でオフレコを前提にした取材に対し発言したが、進退問題に発展しかねず、国会で岸田文雄首相の任命責任が問われる可能性がある。
記者団は1日の衆院予算委員会で岸田首相が同性婚の合法化などについて「社会が変わっていく問題だ」などと述べたことについて質問。荒井氏は「社会に与える影響が大きい。マイナスだ。秘書官室もみんな反対する」などと発言したほか、「人権や価値観は尊重するが、同性婚を認めたら国を捨てる人が出てくる」との趣旨の言及もあった。
その後の取材には「個人の意見であり、公職においての意見では全くなかったが、個人的な意見であってもそれを言うのは望ましくない」と釈明。岸田政権の方針については「包摂的な社会を目指す方向にちゃんと取り組みを進めていく」と述べた。
政権への影響を問われ「ちょっと首相には申し訳ない。僕個人の意見として言って迷惑を掛けている。首相自身がそういうことを言っているわけでも、考えているわけでもない」と答えた。今後の対応については「慎重に、あらゆる発言を気をつけてやっていく」と述べた。
私が一番あきれて驚き、怒っているのは、この最低男は、最近の映画もドラマも小説も、まったく見ていないのかということだ。特に好きでなくっても避けてさえいても、もう普通に目や耳に入ってくるほど、どんな文学作品でも、同性愛や同性婚については好意的前向きにとらえ、特にそんなのをテーマにしていない作品でさえも、拒否感や嫌悪感を示さないのは鉄則だ。何につけても一辺倒が嫌いな私は、少々不安になるほどだ。もはや、「同性愛を嫌ってはいけない」と言うことは、「人を殺してはいけない」ということと同じ程度に常識になっている感じさえする。
だからと言って人殺しをするバカがいなくならないと同様に、同性愛を嫌悪する人は現実にはそのへんにいくらでもいるだろう。それもしかたがないだろう。女性へのしょうもない定義や見方の不愉快さに子どものころからのたうちまわって来た私には、そのような気分もよくわかるつもりだ。
だが、政治家のはしくれとして、公人として、口に気をつけろ、空気を読めということはそれとはちがう。こんな屋台の椅子でとなりの男とくだをまくような(それでも周囲を不快にするからまともな人はつつしむだろうが)あけすけの、おっぴろげの変態まがいの発言を記者会見でたれながすような男の、人間としてとかよりも政治家としての判断力と能力はどうなっているのだ。民間や世界の流れのろくな情報収集もしていない怠惰さにも恐れ入るが、ガラパゴスどころではない時代遅れの自分の感覚を押し隠しとく手練手管のイロハさえ使えないのじゃ話にならない。こんな男が総理の秘書官をつとめられ、外交や内政を司る仕事に関与していると思っただけで、日本の未来や将来に何の希望も見いだせない。危機感しかない。
おまけに「他の秘書官も皆そう思っている」だの、あとで「皆に聞いたわけではない」と謝罪で取り消す、軽率さ、世の中なめくさった甘さときたらもう。そしてお定まりの「そう思われたら」謝罪するという、卑怯なみえみえの逃げ腰の開き直り。
首相の先日の発言と言い、こういう感覚で政治をやってるんだったら、もう何をか言わんやだ。国民がこれでまだ自公政権を(ついでに維新も)支持するのなら、さらにもう何をか言わんやだ。
一昨日、町に髪のカットに行き、昨日は隣町に「午前十時の映画祭」の「ヘアー」を見に行き、二日連続の遠出にぐったり疲れて何もする気になれなくて、冬眠みたいに寝ていたが、ラジオで聞いたこのニュースでいっぺんで腹が立ちすぎてアドレナリンが爆発し、やる気になった。それはまあよかったか。
ゆり戻しで仕事しすぎて、またバテないように気をつけながら、今日は買ってきてそのままにしといたバラを植え、明日のお客さんにそなえて家を片づけ、ブログも更新するとしよう。
そう言えばさっきラジオで、川鵜と海鵜のちがいを説明していて、ちがいは微妙で体調は二センチぐらいの差、色は黒だが光があたると川鵜は茶色、海鵜は緑色に見える、目尻から頭への白い線が、海鵜はちょっと急傾斜、くちばしのはしが、どっちかが丸くてどっちかが角張っている、などなど、絶対見分けがつかねーよとベッドの中で大笑いして、あれも元気回復に役立ったのかな。
それと早朝からさっきにかけて、どっちも九十代のキダ・タローと仲代達矢の滑舌も内容も矍鑠としすぎたしゃべりを聞いて、どっちも私は好きなので、ここまで元気なのがとてもうれしかった。
まだいろいろと書きたいことはたまっているが、まあぼちぼちとお伝えします。