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『大才子・小津久足』感想(2)

嘘つきAI

先日NHKのラジオで、最近の電子頭脳は人間と対話ができるほど発達していて、「もっともらしい嘘をつく」ことまでできるようになっている、という話を聞いた。たとえばシーラカンスについて情報を求めると「フランス料理に使われていて味がおいしい」とか、ぬけぬけといけしゃあしゃあと、嘘八百の情報をもっともらしく、いくつも述べたりするのだそうだ。

私はかねがね電子頭脳などにはまったく恐怖を感じておらず、便利に使えば非常に役に立つという感覚しかない。特に自分がとってかわられるという不安はまったく感じない。私のような突拍子もない発想や、しつこすぎるデータ蓄積が電子頭脳にやれるわけがなく、そもそも作ったのもデータ入れたのも人間なら、仮に恐れるとしても、その人間の頭脳やセンスで、それが作った電子頭脳なんかじゃない。もっともらしい嘘をつく機能なんぞに何の価値も感じないから、どこも自分の領域が侵されたという感覚はない。

ただなんか非常に不愉快ではあった。ぬけぬけ平気で、しかもすぐに見えすくような嘘をつくという、その無駄なエネルギーの使い方に腹がたったのかもしれない。そしてとっさに連想したのは、いわゆるネトウヨと言われるひとたちとの類似だった。
以前、大学のサイトで作っていたホームページで、掲示板を開いていて、オスプレイについて書いたとたん、オスプレイを擁護して「落ちてないよ!」と書いてよこした書き込みがあった。もちろん匿名の。私は当時、意見が違う人の書き込みでも消さないようにしていたのだが、たしか、その書き込みはかなり迷ったあとで削除した。一般の新聞でもネット検索でもオスプレイと言えば事故の多さでまず知られている。そんな中で、こういうまっ赤な嘘を平然と書き込む精神は害毒しか流さないと判断した。犬について口が三つありますと書くのにもひとしい、こういう情報を文字にする感覚が今も私は理解できない。そして、この手の、いわゆるネトウヨと言われる人たちに対する私の不信の基礎を作った最初の体験でもあった。

そしてNHKのラジオに話を戻すと、このような「見えすいた嘘をぬけぬけとつく」AIの新機能だか性格だかについて、一般の人たちのツイートの反応がほぼすべて好意的で、「かわいらしい」「面白い」「人間らしい」というものだったことに、私は本当に戦慄した。このようなデマやインチキを垂れ流す行為は私に言わせれば、殺人なみに罪が重い。絶対に許してはならない種類の犯罪だ。
こんな無責任な放言やさまざまな流言飛語が育て、そのあげくには差別や虐殺さえもあっさり生むことに対して、このようなぬるい好意をよせる人たちは何の杞憂も警戒もないのか。あまりにも鈍感すぎる。AIには罪はないが、こういう人たちは人間としての責任感がなさすぎる。

忘れること、忘れないこと

大学の演習や卒論指導や講義のときに、学生たちによく言った。

「こうやって、一つの言葉や事実を調べるために、何冊もの本を読み、資料にあたり、手がかりをさがして確認する、こんな作業を少々しても、それで得た知識なんて、あなたたちは卒業して二年もすれば、きっと完全に忘れます」

「でも忘れないことがある。それは、一つのことについて確認し断言し発表するためには、これだけの手続きを経なければならないということ、世間で語られる知識や情報の背後には、こういう膨大で豊穣な作業が横たわっているということです。その実感と体感は、多分死ぬまであなた方の心と身体のどこかに残るはずです」

「むろん、そういう手続きも何もなく、適当で雑でいいかげんに書かれた学説も記事も情報も山ほど世間にはころがっています。でも、あなた方の中に残るその実感と体感があれば、なーんとなく、その薄っぺらさや怪しさは感知できるはずです。本物とにせものの見分けがつくようになり、正しい情報が、それとわかるようになります。それこそが、演習や卒論制作の目的で効用だろうと私は思っています」

「人はもちろん、大学だけで、それを学ぶのではありません。畑で作物を育てたり、家を建てたり、魚を釣ったり、床をみがいたり、寿司を握ったりして行く実体験の積み重ねの中で、そういう、にせものを見抜き、本物を見つける力を養うひとも多いでしょう。でも、あなた方は大学に来て、文章を読み資料を読み知識を増やすことで、それを身につける方法を選択したのです。だから、その期間はそれに集中することが、そういう人たちの実体験に劣らない力を身につける責任でもあるのです」

こういう時代だからこそ

私が今、一人でも多くの人に、この本を読んでもらいたいと願う理由のひとつもここにある。この本には、適当に書かれた部分はない。すべてが調査され、検証され、責任を持って結論づけられている。極端に言えば、途中で挫折して放り出したりしても(多分そんなことはない)、この本に貫かれた著者の姿勢と視線のありように触れたなら、ネットやその他の言説の本物偽物を感じ取る能力が、きっとどこかで身につくと思う。「あの本の書き方とどこかちがう」「あの著者なら、こんなことはしない」という感覚が、きっとちらつくようになる。

もちろん、そんな本は他にも多いかもしれない。だが私は、今のところ、新しいのではこの本のことしか知らないので、とりあえず、めいっぱい、この本について書く。

そうは言っても、こういう学術書っぽいものを読んだことがあまりない人や、専門外の人には、やはりとっつきにくいかもしれない。菱岡氏はこれ以上ないぐらい、わかりやすく読みやすく書いておられるが、何しろ詳しくて量が膨大だ。なので、次回からは、そういう人がこの本を読む手がかりになりそうな、要約っぽい内容や骨組みについて書くことにする(あくまで予定。また脱線するかもしれません)。

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カツジ猫