続・ツンデレ愛国
ラジオもテレビも、まだすきあればうじうじと、カタールのサッカーの話をしているようだし、年末にはまたどうせ、原発も防衛費もマイナンバーカードも放ったらかして、その話題ばっかり持ち出すんだろう。どうせ見も聞きもしないからいいけど、せっかくだから私も書き残したことを、この際ちょっとだけ書いておこう。
…と書いたのが去年の暮れ(笑)。年末はテレビも見なかったので、どうなったかは知らないけど、とにかく書こうとしたことのかたをつけておきますね。
日本がドイツかどっかに勝って国中が狂気興奮しているように見えたころ、多分共産党の地方議員の方が、その後日本が敗北したとき、「負けてよかった」みたいな書き込みをご自分のブログにした。それに対して相当な批判が集まり、共産党への悪口にもつながり、支持者っぽい人たちからまで、軽率な書き込みだという批判があり、もしかしたら削除か謝罪かされたかもしれない。
この書きようでもわかるように、私はあまり熱心にこの成り行きを見ていたわけではない。たしかに苦笑しながら「勇敢な書き込みだ」と思ったが、決して悪いとは思わなかった。この機会に共産党の悪口を言おうとしている人の攻撃は気にならなかったが、「国民の支持を得るためにはこれではいけない」という種の忠告は、どうやらその人自身がサッカーに熱狂している様子がかいまみえるとなおのこと、それも相当軽率な発言と思えたし、私自身もふくめた多くの人が同じようにサッカー一辺倒の報道や熱狂に不快や不安を感じていても、あえてこの論争に参加せず、最初に書いた人を支持も支援もせず、さわらぬ神にたたりなしだか、ことを大きくしたくないだかといった感じで静観傍観していたのは、もっと不快で不安だった。この状況が、この雰囲気が。
「思っていても書き込むな」「議員としてのブログには書くな」と言った発言も最初の書き込みの批判には多かった。話せば長くなるからやめるが、それも私には不愉快だった。「日本が負けたのがうれしければ黙って喜んでいればいい。人を不快にするようなことをわざわざ書くのはよくない」的な意見にもまるで納得できなかった。それこそ、「日本が負けてうれしい」みたいな書き込み読んで不愉快になるなら、黙殺、無視し、遠ざかっていればすむことだ。他のいろんな問題にしても、そんなことは普通だろう。
私自身は特にサッカーのファンではないが、面白いから一応は見ることはある。その中で今回痛感したのは、肌の色や髪の色で、どこの国のチームか判断するのはまず無理なぐらい、さまざまな選手が入り混じっていること、それを各国が夢中で自国の選手として応援していることで、不幸な原因も中にはあるにせよ、世界の人種や国民の流動や混在ぶりは、ものすごく進んでいるのだということだった。
最近、元白鵬が大相撲の解説者やバラエティーに出てくるのを見ると、その話の筋道の明瞭さや幅の広さに、聡明さや暖かさがしのばれて、多分ものすごい攻撃の中であの成績を保てたのはこの力があってこそだと、よくわかった。それでも私の友人たちも、現役中の彼には反感を示していた。「負けるとストレスがかさむから、野球は強いところのファン」と言い切って巨人を応援していた(昔のことです)人までそうだったから、彼の強さへの反感だけでは決してない。マスコミをあげての彼へのバッシングに彼がどんなに消耗しているかを思うと、そんなにファンではない私も、励ましの手紙を送りたい誘惑に数度かられたほどだった。
もっと更に昔、高名なドイツ文学者が日本人の横綱がいいとか何とか、外国人の活躍に危惧や批判を公言していたとき、友人の国文学者の女性は「そういうあんたは外国文学で飯食ってるんじゃねーか」と笑い飛ばしていたのは、さすがだったけど(笑)。
サッカー選手たちの発言の、さわやかさや冷静さも好きだったし、外国のいろんなチームを皆が渡り歩いて交流している状況も好ましかった。先の人種の多様さといい、それを承知の応援といい、一方で過度な愛国心の発露もある一方で、そういうことを単純化できない複雑で流動的な現実も、世界のスポーツには生まれつつあるのを感じていた。これが今後どうなるのか私にはわからないし、予想なんてむろんできない。だから以下はまた、私個人の感覚というか感想に限って話す。
その後、日本がまたどっかに勝ったとき、ツイッターで共産党の小池晃さんや蓮舫さんか福島みずほさんのどっちか(すみませんっ!)が、いちはやくお祝いと喜びの発言をした。先の地方議員の書き込みでの騒動に配慮されたのかもしれないが、その方々の祝意と喜びの気持ちを私はまったく疑わないし、反感も不快も感じない。
それでも、とても、いやだった。こうなってしまう状況が。たまらなく恐ろしかった。自国のチームが勝利したら、ツイッターでも職場でもご近所でも、すかさず皆が喜びを示さないといけない気持ちになる、この雰囲気が。
ちなみに幸い、ホークスの優勝前にはよく「昨日は惜しかったですねえ」などと話す、ご近所の奥さんも含めて、私のご近所の人たちとも、行きつけのお店でも、ちっともそういう話題は出なかった。ワイドショーの狂奔熱狂ぶりは、そういう点では、かなり作られたものではあったかもしれない。それにしても、やはり当時のツイッターでは「どうして日本人なのに、日本チームが戦っているのを応援しないのかわからない」という、私などは見た途端にヘドが出るような書き込みが、本当にすなおにつぶやかれていた。
私に言わせれば、こういう発言を見るともう私は、こういう人間と同じ国民、同じ人種、同じ人間であることが徹底的にいやになる。こんな人間と日本人であるがゆえにいっしょくたにまとめられるかと思っただけで、自分の血を呪いたくなる。大げさではありません。
そういう人もいるんですよ、日本人の中には。そして日本人を愛するなら、そういう私のような人間も愛さなくてはいけないのですよ。
ちなみに私が自分の出身大学をどこかどうしても愛せないのは、たかが自分と好みや利害や感覚が合わない人を、その大学出身じゃないからと現在在籍中なのに差別して切り離そうとやっきになるバカが常に数名はいるからで、本当にその大学と伝統を愛するなら、よそから来た人もその一員として愛するのが基本中の基本の当然でしょうが。
自分の気に入る人間だけを愛するなんて、ただの仲良しクラブで、あんたのファンクラブでしかない。共同体の力や絆をそんなきちゃないもんに利用すんな。あんたの淋しさや能力のなさの隠蔽や権力欲を、そんなものを使って補填すんな。こういう人種の愛校心も愛国心も愛郷心も、私は絶対信用しない。それでも切り離さず見捨てず、にこにこつきあってるのは、こんなやつでも同じ大学、同じ国民、同じ人種と思ってるからですよ。せいぜい、ありがたく思ってほしい。
ネットで見ると、私のこのような傾向は「天の邪鬼」として片づけられて安心されることになってるようだ。そりゃ、同時代のアイコンとして、皆があがめたてまつる、石原裕次郎、美空ひばり、吉永小百合が私は皆きらいだからね。その一方で山口百恵はあらゆる点で大好きですが。
だからさ、「天の邪鬼」なんてカテゴリーに押し込めて安心してられるほど、単純じゃないのよ、こういう好みや嗜好ってのは。そんな単純なネーミングや囲い込みで処理して安心しちゃおうという、だらけて怠惰な精神が、これまた私は大きらい。
もっと言うなら、私だけではないと思うが、一番好きなものをそれとは言わないことだってある。死ぬほど応援していても、口にも態度にも出さないで一喜一憂しまくってることもある。
トマス・マンの『魔の山』だったか、あまり自信はないけど、その中に、自分の好きな相手を別の人がほめるのを、そうですかねえみたいに生返事しながら至福のときを味わってる場面がある。(いやー、どこか近いけど、全然ちがう場面かもしれない。笑)
でも本当はそれが私の理想で、「えー、どこがそんなにいいの」と言いながら、「推し」を誰かがほめちぎるのを聞きながら、やっきになってこちらを説得しようとするのを快く聞いてたりするのが最高です。もちろん、ほんとに「えー、どこが」と思ってる場合もありますけど。
他人のブログを見ていても、そういうことは何となくわかる。本当に好きな人をそれとなくかくしてるけど、わかる人にはわかるように発信してる人とか、自分のブログを売り出そうとして大げさに熱狂して見せてるわりには複数の人気者にそれやって閲覧者を獲得しようとやっきな人とか。
ちょっと最初に(どのへんだ)また話を戻すと、日本が勝つとすかさず喜びまくりほめまくらないといけないような雰囲気を私がこよなく嫌いなのは、本当に喜んでほめたがってる人が誰だか、区別がしにくくなるからですよ。
私は日の丸のデザインがわりと好きだし、君が代のまるで戦闘的でないまのびしたメロディーもそんなに悪くないと思ってる。でも、強制されたのじゃ、いろんな理由から嫌いでしょうもない人や憎んでいる人も、しょうがないから歌って拝むしかなくなるわけで、そんな人までまじりこむのが、いやでしかたがない。本当に国旗や国歌を愛する人なら、それをいやいや愛したふりをしてる人がいることを、どうして許せるんでしょうかね。強制して罰をあたえて愛させようなんて、最高の冒涜だと思わんのでしょうか、愛する国旗や国歌に対する。
悪口を言う人、無関心な人がいる中で、愛や支持を公言する人がいてこそ、味方や同志がわかるんでしょうに。あ、そういう人がほしいわけじゃないのね。サッカーでも鰯の頭でも犬の糞でも、皆でいっしょに「すてきー、さいこうー」と言ってりゃ満足なのね。つまんないことで幸福になるんだなー。
思えば私は現役の大学教員だったとき、自分の好みをさぐって、それに合わせようとする指導学生がいるのが、面白くておかしかったけど、見せないように注意してました。タレントや食べ物はもちろんですが、とりわけどの学生が好みかなんて、仮にあっても絶対に知らせないのが教師と遊女の基本だと思ってました。まああえて、それを見せる教育もあるんでしょうから、人のことは知りませんが、昔何かで読んだ「ひいきする」先生が一番嫌われるというのは、当然だろうとは思います。そんなことを生徒や学生ごときにうかうか見抜かれるだけでも、バカにされて当然かとは思います。
ひゃー、正月二日に何をながなが書いてるんだ私は。猫のカツジがふれていた(笑)猫の譲渡に関する話も、関連サイトがもう見つからなくなっちゃって、リンクできない。かわりにこちらが、わりとよく、まとめて下さっているので、紹介しておきます。
あとこれも、しつこいおまけなんですが、私が岸田首相のカニだのブリだの食い見せびらかせてるバカぶりに、イラッカリッとしてしまうのは、こういう感覚ともきっと関係あるんだろうなあ。