『大才子・小津久足』感想(9)
また前置きが長くてすみません
私だけかも知れないが、この本の第三章と第四章は、それぞれに、かなり歯ごたえというか読みでがあって、それは精力的過ぎる久足のせいか良心的過ぎる菱岡氏のせいか、何しろすごい…とつぶやいて、ばったり机につっぷしたくなるぐらいボリュームがある。実際に分量も多い(笑)。
私がこれを書いている主な目的は、一般の方や専門外の方に一人でも多く読んでいただけることなので、もしかしたら、取り越し苦労かもしれないが、このへんで挫折して読むのを中断される方がいるのではないかという、大きなお世話もいいところの心配をしている。
なので、だから、そういう方々に何とか読み続けていただきたいので、そこをポイントに書いて行きます。
でも、ひょっとしたら、そういうのはまさに取り越し苦労もいいとこで、案外皆さん夢中になって読みふけられるかもしれない。その可能性も高い内容なのだ。そこは私も予想がつかない。
先行研究の使い方
前にも書いたように、久足はもともと「馬琴の友人」「大変な蔵書家」として知られていた人である。国文学者だったら、むしろこの三、四章が一番なじみぶかくて興味もあって、読みやすいだろう。言いかえれば菱岡氏としては、一番専門的な読者と対決せねばならないところだ。そして私があまり先行研究のない紀行の分野で、手探りで原資料ばかりととり組んだ大変さ(これも菱岡氏はやっている)とともに、すでに研究がかなりなされている分野で、既存の研究を精査し検討し再構成するという大変さもある。
私は後者の大変さをあまり体験していないから、たとえば芭蕉だの秋成だの馬琴だのといった、すでに山ほど論文や著書がある作品や作者を研究する大変さは想像するしかないところがある。
授業や卒論指導で学生に言っていたのは、「先行研究を押さえておくなら、とりあえず一番新しい全集や叢書を見て、そこに参考文献として使われている本をチェックして、さらにその本に引用されている論文や著書をチェックして、とさかのぼって行け。あと、主要な雑誌(国語と国文学、国語国文とか、似たタイトルばっかりだけど)の新しい号から関連論文を探して、やっぱりそこで引用されている本や論文をチェックして行け。それらを可能な限り読んでたら、だいたいの論文はカバーできる」ということだった。でもこれは、苦し紛れの付け焼き刃の指導法だから、あまり自信はない。
ついでに言うとレポートや卒論で、使用引用した文献を末尾に記するのが普通なんだけど、学生には、「末尾にまとめて書くのもいいが、引用したその都度、その部分に紹介してくれないと、賛成したのか反対したのかわからないし、それがわからないと意味がない」と言ってきた。そうしたら、他の先生は「まとめて末尾に記せばいい」と指導されている人もおられるとわかって、あわあわわと、「先生によって方針はちがうから、それぞれの指導に従うように」とつけ加えるようにしている(笑)。でもやっぱり私としては、どこでどう引用したのか参考にしたのかわからない本を末尾にずらっと並べられてもなあと思うのですよ。
さらに困るのは、参考にしても読んでいても、末尾に上げない文献だってあるわけで、それが予想できないらしい読者が、「この本も見ていないのか」とかネットでコメントしているのもときどき見る。そりゃ日本国語大辞典まで参考文献にあげている学生の卒論もあるけど(笑)、普通に本など書こうとしたら、見たり目を通したりした文献を全部末尾に書いてたら、本文以上の長さになりかねないのですよ。分野や方針にもよるだろうけど、特に参考にしたものとか、読者に読んでほしいものだけ最後にあげてる著者も多いはず。「この本も見てないのか」と指摘されるような基礎的文献は、むしろあげないことが普通じゃなかろうか。
菱岡氏のこの本の末尾にも膨大な参考文献があがってるけど、おそらくこの数倍の論文や本を彼は読んでいる。読者の皆さんはそれも予想していただけたらありがたいです。
蔵書家の実態
久足(桂窓)の蔵書家としての面を知っている人たちにとっては、この章は大変興味深いだろう。一方で、専門外の人たちにも面白く読んでもらわなくてはなるまい。菱岡氏はおそらくこの双方を意識しているだろう。そして、そのためにはそれしかないと言えばそれまでだが、大胆にもほどがあると言いたいぐらい広い視野と展望を持って、当時の書籍の流通や、読書人の実態の全体像を描こうとしている。
ぶっちゃけ私もこの方面ではシロウトだから、この全体像がどのくらい正確なのかはわからない。しかし、おぼろげながら確実にイメージはつかめる。ということは、正確である可能性が高いだろう。
当時の読書や書籍の実態については、これまでにも詳しい研究やさまざまなエッセイその他の記述が残されている。そのような多彩な資料の数々を菱岡氏は克明につなぎ合わせて整理して、久足の蔵書がどのようなものであったかを具体的に浮かび上がらせようとしている。
久足の膨大な蔵書「西荘文庫」は今は目録として残るだけで、書籍そのものは分散して現存しない。菱岡氏はその文庫の存在が、どのようにして知られて有名になったか、それがどのようにして成立したかから始めて、それが散逸して行った過程も執拗に検証する。
その蔵書はもともと小津家に伝わっていたものだが、その中核は久足の蒐集によって作られたこと、小津家の経済的事情から、近代にいたる長い期間の中で何回にもわたってそれが売却されたこと、その売却先での運命、さらに、久足自身の本の購入の実態と、彼をかりたてた情熱はどのようなものだったか、つまり本そのものと、人そのものについてとことん説明してくれている。
読んでいる方にはおわかりと思うが、私の文章は無駄にめりはりが多くてうるさい。だが菱岡氏の文章はもっと穏やかで品がいい(笑)。だから、ものすごい手間をかけて調査をして、驚くような鮮やかな事実を指摘していても、なだらかで読みやすい文章だから、その大変な労力や指摘される事実の重要さに案外読んでいて気づかない。読者としてはそれは大変なぜいたくで、読んで行けばひとりでに、江戸時代の知識人の書籍との関わり方の全体像が頭や身体にしみこんで来る。
長くなりすぎるから次回に述べるが、それは今の日本における人や資料といった知的財産のあり方や扱い方についても、私たちに多くのことを考えさせる。私はこの本を専門分野の人にも増して、政治や経済、社会や法律、各分野にたずさわる多くの人に絶対に読んでほしい。そこから日本の今後を考えるときのひとつの目安を見つけて行ってほしいと切実に思う。