あの春から今までにあったこと(1)
歌の文句じゃないけれど、誰かを責めず自分も責めず、何であの時ああいうことにしかならなかったのかということを、少しずつ考えてみている。周木律のミステリを読んで、こんなまったく関係ないことに思いいたって、数年も前のことを検討しはじめる私もどうかとは思うが、何か今後のために役に立たないわけでもないだろう。
それは、私が政治的社会的活動から距離を置こう、遠ざかろうという選択を自分でも気づかないほど心の奥で自然に決めた理由や原因についてだ。実際には2016年の年の暮れに母が亡くなって、それから翌年の3月までの間に、私が置かれていた状況を多分誰もが完全には理解していなくて、どういうか、どの方面からも心のケアのようなものは、まったくなかったという状況だ。
もちろん、身近で心をこめて接してくれていた人は何人もいたし、それに感謝しながらも、自分の苦境を見せないで、いや見せても苦境のようには見せないで、自分の生活に立ち入らせなかったのは私であるから、そもそも私自身が自分の状況をまったくわからずに、たかをくくっていたということが一番の原因ではある。無理をしていたのではない。カッコつけていたのでもない。私は自分を信じていた。その強さも賢さも優しさも。それがものすごい過大評価で、自分は強くも賢くも優しくもなかったのだということを、今あらためて思い知っている。
私自身にもわかってなかった、その私の状況を、多分私以上に察し理解して、出過ぎたいたわりはしないでも、常に見守って「何かあったらいつでも言って」とメッセージをくれていた人たちは少なくなかったし、それで私は何とかやって行けたと思う。だが今思っても、政治的社会的活動をしていた人たちからのそれは、その数ヶ月私はあまり感じなかった。少し時間をくれ、休ませてくれという依頼は私はその間し続けていたつもりだが、それでも仕事はいつも来た。ぶっちゃけ荒々しい言い方をすれば、母が死んで家も売って、生活全般を根本的に見直そうとしている人間に対して、要求できるようなことだったのだろうかと思うほどだ。
ネトウヨが二言めには、集会やデモや抗議行動に参加する人たちに「日当をもらってるんだろう」と悪罵を浴びせる。私はその発想というか思いつく思考回路が、いつもまったくわからなかった。おそらく自分たちがそうやって、報酬をもらってネットに書き込み、集会に参加しているから、誰の行動も発言も「金をもらって」としか見えないのだろうと最近ではわかって来た。
そもそも政府や首相が、そのような基準で動き、人を見ているのだから話にならない。
むなかた九条の会もその他の立憲民主的活動も、まあそもそもあまり知られていないが、政党助成金をまったく受け取っていない共産党も、その点では対極にありすぎて、もうおたがいに宇宙人としか見えないだろうと思うぐらい、その感覚はまっさかさまだ。そもそも私たちは集会やデモは手弁当どころか、行けばカンパで金をとられる。それだけが活動の資金源なのだ。車代も原稿代も講演料(もらって下さる方もいるが、受け取らない人も多い)も出ない。ましてやビラまき、街頭宣伝、ポスター貼り、資料作りといった肉体的奉仕、時間的制約は完全にもうボランティアである。
命に関わる大きな手術をした人でも、ひと月もしない内に復帰して活動に戻る。家族が重病で介護していても、会議には参加するし与えられた仕事をする。中にはそのまま亡くなられる方もいる。
そんなことは美談でさえないほどの普通のことで、だから私も自分がいかに今大変な状況かなど、口にする気もしなかった。皆の中では私など楽な方だと思っていた。
実際そうなのかもしれない。
けれど、私ならではの特殊事情というのを、やはり軽く考えすぎていたのかもしれないと今思いはじめている。私自身も、だから必然的に周囲も。
ひとつは、私の専門的な仕事や研究分野が、社会的政治的活動と、ほとんど重ならず、まったく別の作業をしなくてはならなかったことだ。もしも専門分野が歴史や政治や社会福祉や国際問題や教育だったら、もっとちがっていたかもしれない。
知識や調査の分野がまったく重ならないということもだが、そもそも文学的な発想や分析が、政治的社会的活動とあいいれないということを、ほとんど常に痛感し意識させられていた。懐疑的な分析や考察は、皆にとって不快なものであり、より精神を鼓舞し昂揚させる資料や発言の方が求められるという現実は、文学を専攻する者にとっては厳しいものがある。孤独や違和感には私はどこでもいつでも慣れているし、むしろ快適で安心できるほどでもあるが、やはりそれは発言や行動に、常に工夫と緊張を要した。
また、専門分野に関係なく、研究論文を書くことと、政治的アピールをすることとは、下手をすると両方だめな人間になりそうで、毎回その精神的負担もバカにならなかった。政治的社会的活動に全面的に打ち込んでいく覚悟があるのなら、それなりの調査も勉強もするが、限られた時間の中で、わずかな感覚を頼りにチラシやアピールの文章を書くのは、楽なことではなかった。その労力は多分誰にもほとんど理解されていないだろう。小説でも他の文章でも、私がよく人に言われるのは「読みやすい」「さらさら書いた感じ」「私にも書けそう」などで、これは私がめざしていることでもあるから、ほめ言葉ではあるのだが、実際にはそういう苦心のあとが見えないものほど、時間と精神を費やしている。
私はダンスでもフィギュアスケートでも絵画でも音楽でも小説でも、苦心のあとが見る人に伝わるのは、三流ではないまでも決して一流ではないと思っている。だから、何の苦労もしないで文章を書いたりしゃべったりしていると思われるのは、自分でめざして心がけていることだが、結果として、私の書くものやしゃべることは、大したエネルギーもパワーも費やしていないから、気楽に頼んでも使ってもいいという印象を与え、ひいてはそれが、私は大して疲れてはいないだろうという印象になっていたのかもしれない。それでもいいのだが、結局それは、私の疲労度や消耗度に対する、周囲の読みの浅さにはなって行ったのだろうと思う。
もう一つは、家族がいない一人暮らしの生活スタイルという特殊性だ。もちろん家族がいないのは、経済的にも時間的にも精神的にも、苦労や負担が少ないということはある。だが一方で、それならではの苦労や負担も大きくて、それは容易に理解されない。見当がつかないのだろうと思う。
私の回りの政治的社会的活動をしている人は高齢者が多い。若い人の参加をどう実現させたらいいかということは、常に話題になる。しかし、人にもよるけれど、高齢者は家族や親族の中では最前線にも中心にももういないことが多いから、その分自由に動ける。若い人や中年の人には、そんな余裕はないのだから、高齢者の活動が中心になるのも、現状では当然なこともある。
そして私に関して言えば、私はそういう高齢者ではなかった気がする。(つづく)