あの春から今までにあったこと(2)
祖父以前の板坂一族のことはおいとくとして、祖父以降の家族や親族は、それほど数が多くはないし、多分世間の標準から言うと、あまり交流もない。一族で団結するとかいう発想はほとんどない。それがなくても大丈夫という意識の方が強いかもしれない。
私もまだ会ったことのない親族の若い人たちが何人もいるし、それを別におかしいとも思っていない。それは友人でも師弟でもそうだが、私はしょっちゅう会っていないと気持ちがわからなくなるという人間関係をあまりというか、ほとんど持たない。いつもいっしょにいなければ信頼できないつながりの方が、むしろ危ういものに見える。
だがむしろ、そうして会わなかったり知らなかったりする分、親族全体のことはいつもどこかで頭にある。昔からこうだったわけではない。祖父母の位牌と家を管理し、経済的に一族に大きい貢献をしていた叔父叔母の位牌と家財(財産は皆、法に従って分割した)を引き継いだ結果、そういう立場を意識せざるを得なくなった。
私は死者や過去の人たちのために、若い人たちが縛られたり犠牲になったりする必要はまったくないと思っている。祖父母や叔父叔母の墓や位牌も、私が死ねばどうなるかわからないし、それでもいいと考えている。しかし、その一方で、それは一族の若い人たち、今後の子孫にとっては、うれしくないことかもしれないと思う。
だから、連絡を取ったり召集をかけたりなどしない。むしろ、何をするかより、何をしないでいるかということに力を注ぎ、気を使う。そうやって、一族全体のことをつかず離れず考えて、相談できる人とは相談しながら、亡くなった人と、これから生きて行く人にとって最善の方法は何かと考え続けている。
母や祖父母や叔父叔母の墓や法事の管理をしながら、今後どうするか、自分の役割は何かをいつも考えている。そういう点では、結びつきのゆるやかな一族の中で、私はやはり最前線で中心にいる一人だ。私の発言や行動が、皆の将来や幸不幸を左右することだってあるだろう。
私はそんな位置にいる。それも世間の常識では通用しない、一風変わった役割と責任を果たそうとしている。モデルケースなどはない。自分の判断と良心と、死者や生者やこれから生まれてくる者への愛を基準に考えるだけだ。
それだから、たとえば母の死、家の売却、などなどを誰にも相談せず、一人で決断し決定しさまざまな書類から、自分が数回生きても稼げないほど多額の金の出し入れまで、協力してくれる人たち(その人たちが本当に信頼できると判断するのだって、簡単なことではない)の手を借りながら、それこそ時にはのどがからからになるような緊張感や不安を抱えて、全部自分ひとりで処理して来た。誰にどこまで、どれだけを相談するかということの決定だって、毎回息を殺して集中して判断して来た。
本当に節目節目で、時には毎日毎秒、自分の価値観や世界観や人生観を検証し、点検しながら、取るべき方針を決めつづけていた。それには、時間や集中力や静寂や心を乱されない場所が、限りなく必要だった。それを最低限にしぼりこんで、私は決定と実行をくり返して来た。いいかげんに、あいまいに、無意識に決めたことなど、多分ひとつもない。すべて、失うものも与える被害も折り込み済みで、確信の上で選択して来た。活動や会議に割ける時間も精神力も、計算しつくして確保したものだった。
私が母の死に際して、対応し、乗り越えなければならなかったのは、そういうさまざまな状況だった。
それが多分ほとんど周囲に伝わっていなかったのは、私自身の責任だ。
だから、理解してくれとは言わない。援助してくれとも思わない。
ただ、くり返す、私が自分で計算し判断して、この時間は私に必要だから、確保させてくれと言ったら、それは本当に絶対に必要な、ぎりぎりの時間だ。それを与えしぶる人たちに、もう私が与えられるものは何もない。
そして、この春またしても、私が老後の生活と仕事の予定を完全に破壊され、短い貴重な未来を根こそぎ奪われたことへの衝撃も、ともに活動していた人たちには、ほとんど伝わっていなかった。
なぜ伝わらなかったのだろう、自分のどこが悪かったのだろう、と今でも私は考え続ける。
どこか家庭の主婦の立場に似ているのかもしれない。何をしても壊れない。傷つかない。便利で使い勝手がいい。多分、やっていることがそんなに苦になってはいないのだろう。そう思われて、無理をすればするほど、滅びるまで使い倒される。
祖母のことを思い出す。亭主関白の祖父に仕え、家事労働も医療行為の補佐も地域での交際も完璧なまでにこなして、文句の一つも言わなかった祖母が、身体が弱って無理がきかなくなったころから、多分離れて暮らす子どもたちには想像もできないぐらい、荒々しく祖父に逆らい、殴るける、棒を持って叩きあうなどのすさまじい喧嘩をしていたことを。
「私がこのへやにいたら、おばあちゃんがいきなりかけこんで来て、『なんか、なかへ』と言ってあたりを見回して、棒をつかんで走って行って、おじいちゃんになぐりかかっていた。すぐに棒をとられて、逆にぼこぼこに叩かれて、『みおちゃーん、きてくれんね、このきちがいをぶちころそうやー』と叫んでいたけど、私は行かずに放っておいた」と、母はうんざりしたように私に話したことがある。晩年の祖父母にそんなことは珍しくなかった。
私はそれを聞いたとき、暗澹とするよりも、むしろ祖母を尊敬し、祖父も好きだったが、祖母のそんな豹変が不快ではなかった。
今、その時の祖母の気分が私にはよくわかる。
祖母がなぐりかかっていたのは、きっと祖父だけではなく、それまでの自分自身だったのだ。(終)