ある思い出
宮崎の口蹄疫による殺処分の事ですが、キャラママさん達の御話を伺って居てふと思い出した事が有ります。
まだ母が割に元気だった10年近い以前だったと思います。初めて介護保険を利用する事にして、ヘルパーさんに週に一度か二度御掃除に来て貰って居ました。
そうし始めた最初の頃にヘルパーさんの上司が御出でになり、ヘルパーさんが猫アレルギーだったか、我が家の猫に蚤が居てそれで肌が赤くなって荒れたか、何かその種の事が有って、「猫を処分して下さい」と求められました。私は当時職に就いて居て家に居らず、母からその話を聞かされました。私が直接、上司の方にお会いしたのだったか、最後まで母だけが対応したのかも正確に記憶には有りません。母も当時はまだしっかりして居て、大方の事は一人で解決して居ましたから。
その頃は我が家には数匹の猫が居て、かなり家も汚れて居ました。蚤も居たでしょう。ただ、私も同居して居ましたし、人が住めないとか入れないと言う程のひどい状態では有りませんでした。仮にそうだったとしても、そういう家庭にこそ「快適な生活を保障する」為に掃除の方に来て頂く事は介護保険の目的に矛盾はしない筈でした。
くだくだと申して居ますが、ともかくその時に母の話から私が受けた印象では「担当のヘルパーが猫の為に健康を害したから猫を処分してくれ」と要求されたという感じでした。ヘルパーを交替させるとか猫の蚤を駆除してくれとかいう相談や交渉という感じではなく、一方的な通達でした。
母も私も猫を処分するという事は脳裡に全く有りませんでしたから、そんな事は一瞬たりとも考えませんでした。それでどうなったか覚えて居ませんが結局はヘルパーさんは来続けて下さったし、猫もその侭でした。
「公務員の世界は矢鱈と規則や良識を喧しく振りかざして人を束縛し統率する癖に、それを無視して非常識を押し通す者に対しては何の抵抗も出来ずに引き下がり、あまつさえ、そういう者を庇ったり守ったりする。その、真摯に受け止める相手への厳しさと、鉄面皮に無視する相手への卑屈さとの、あまりのギャップに愕然とする。構造上のどこかに、力関係とゴリ押しが通用する体質を生む何かがあるとしか思えない」とキャラママさんが良く言われます。或いはそれだったのかも知れません。猫を捨てるだの殺すだのという選択肢は初めから持たない私達が文字通り相手にせずに居たから、その侭になったとしか今では思えません。
ですが私はずっとその事が気になって居まして、つまり当時の私どもの状態は今程深刻な物では無く、母はまだ元気でしたし、いざとなったらヘルパーさんが来なくても何とかなると思って居ました。だから図々しくも強気にも成れました。けれど、あの時点で例えば身体も不自由でどうしても介護のヘルパーさんに来て貰わないと困る独居老人や家族であれば、あの状態であれほど一方的な通達めいて「猫を処分しないとヘルパーは行けない」と言われたら、大事にして居た家族同様の猫でも断腸の想いで手放すしかなかったのではないでしょうか。或いは家族との対立を生んだり家族が密かに猫を処分するという事もあり得たのではないでしょうか。
現在の介護保険は随分改善もされて居て、ケアマネージャーさんも各機関も行き届いた配慮をして下さいます。唐突にヘルパーの事情で猫の処分を要求する様な事は今では考えられません。まだ制度がスタートしたばかりの時期で、模索や混乱も続いて居た時だったのでしょう。
それでも私は気懸りで、あの様な事が通用していた時代、処分された猫や犬、せざるを得なかった飼い主が果たしてどれだけ居たのだろうと、つい思ってしまうのです。今ではそれが夢物語に近くなって居るからこそ、それだけに、なおの事。
口蹄疫で家畜を処分せざるを得ない農家の方々が、病気や法律に関しての知識が十分に有り、納得や覚悟をされて居るのなら、まだしも救われるのですが、「もしや、そんな必要のない事をさせられて居るのではないか」「自分の知識の無さや努力の足りなさが、愛する家畜を守れない事につながっては居ないか」と言う疑いが少しでもあったら、それはどんな拷問にも勝る苦しみです。
だからこそ専門の科学者や医学者や法律家や政治家は、その人達に残酷な通達を出す前に、絶対に本当にそれしか方法はないのかを、文字通り、文字以上に「当事者の気持になって」考え抜き苦しみ抜かなければならないでしょう。
母に猫の処分を通達した人や機関に、その姿勢は有りませんでした。
だからこそ今回の宮崎の件でも私は当事者以外の人がそれを考えてくれて居るのか不安です。
そういう点で信頼できる人間の声が、どこからも聞こえて来ない様でなりません。