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うざい自信。

◇時間がない時間がないと言うてるわりには、今日は朝から夜まで一日、博多座で文楽を見て来た。歌舞伎ほどではないけれど、ほぼ満席で若い人もそこそこいて、うれしかった。三浦しおんの本のせいかしらん。大阪市長が知事のころ、文楽へのわずかな予算を削ったのを思うと、ますます人気が出てほしいと願ってしまう。

しかし昼の部の「一谷ふたば軍記」、歌舞伎で見ても本で読んでも、いっつも同じこと思うのだけど、直実の妻の相模さんは気の毒だよなあ。母親として最悪の不幸に遭っちゃった藤の方を慰めながら、自分がそうじゃないことに後ろめたかったり安心したりそれで気がとがめたり、もう、あらゆるいやな感情をかみしめていたのが、突然それが、まっさかさまに逆転して、自分が哀れんでたり気がとがめたりしていた存在に、いきなり入れ替わってしまうなんて、世の中にこんな悪夢なんて、そうそうはない。

私は彼女にこんな思いをさせる夫の直実にも、息子の小次郎にも藤の方の息子の敦盛にも、そそのかした義経にも、脚本家にも観客にも、もう全部に腹が立つのだが、それはよく考えたら母親としてのつらい思いもさることながら、皆が知っていて、相模さん的には自分と藤の方だけが知らないでコケにされた、中でも自分がもてあそばれた、っていう、この事実の方じゃないかと思う。

◇「コードネームはアンクル」の映画やら、元ネタの海外ドラマの「ナポレオン・ソロ」やら、スパイものを見ていたら、こんな身内からだまされる状況はいくらでもあるし、それはそんなに気にならない。そもそもスパイの世界はそれで成り立ってるのだから。私自身も若いころには、よくそうやって人をだまくらかして、好きなようにあやつっていたから。

いつからか、そういうのが少なくとも自分の回りでやられるのには、ものすごく疲れて、うんざりするようになったのはなぜかしら。自分でもやらなくなったのはなぜかしら。

多分ひとつは私はこういうのは、弱い者が強い者に対してする時だけ許されると思ってるからだろう。言ってみれば教育というのも、そういう、だまくらかして洗脳する要素を持っているわけで、だから昔から、あらゆる「教育」が大嫌いだったのもそれだ。それに対抗するためだったら、つまり生徒として教師をだますのはまったく問題ないと思っていた。

しかし、友人とか仲間とか恋人とか家族とか、何がしか同等の相手に対して、それをするのはいやだったし、私に対しても誰に対してもそういうことをした相手にはその瞬間に人間としての興味はなくした。もちろん、ちゃんとつきあったし、よそ目から見たら仲良くしてもいたけれど。

弱くて文句が言えない抵抗できない相手に対してそうする人にも、もちろん同じように興味をなくした。ついでに言うとそういうことされて黙って平気で許してしまう人にも、同じことだった。まあでも私も見た目には、気にしてないように見えたろうから、そこはわからないわけだけど。

最近テレビで、家族を対象にしたドッキリカメラの番組がよくあるけど、私は自分の夫や妻が、ああいう番組で他人といっしょになって自分をだましたら、表向きはきゃああと笑って面白がってそれきりにするだろうけど、内心ではきっと、もう二度と愛さないし、自分もどんどん積極的に(笑)、もっと重要なことで相手を裏切るだろう。そうしてもいいっていうお墨付きを無期限にもらった気分になるだろう。

キリストが荒野で悪魔の誘惑をしりぞけるのに「神を試すな」と言うけれど、私も私を試すような人間は許さないし、自分も他人を試そうとは思わない。

◇とか言ってると、でもどこぞのバカが「そうか、あの人は他人を試さないんだな」と信じこんで、それを重要な資料として私をあやつる材料にしようとするかもしれないな。それはそれで、これまた甘いかもしれませんぜお客さん(笑)。
私はわかりやすい人間でいたいと思うし、そう心がける一方で、絶対に分類されたり予想されたりするような人間にはなりたくないとも思っていて、自分でも困ったもんだとときどき思う。

キーワードの一つは結局「甘え」かもしれないと思うこともあるんだよね。それが正解かどうかは知らないが。
私は敵やスパイからだまされても、けっこう笑って許せそうだが、私に愛されてると思ってる相手からだまされるのは多分許せない。
ほんとにこっちが愛していたら、多分許せるだろう。何をされても絶対許せる。
しかし、こっちが愛していると思わせるようなことは何もしていないつもりなのに、ていうか、ぶっちゃけ、こっちがどうとかはほぼ関係なく、「自分ほどの知恵や力や魅力があったら愛してもらえるに決まってる。このぐらいのことしても許される。認めてもらえるに決まってる」と、どこかで決めこんでる人間の、平気でこっちに甘えてくる一環としての嘘や裏切りやごまかしや手練手管というのは一番うっとうしい。だいたいそういう、根拠のない見通しの甘さがなあ…結婚にしても戦友にしても、とても手は組めんと思うわ。

はっ、何で文楽の話からこういうことになるのだろう。
ちなみに私は動物に対しても、こういう風にからかったりおもちゃにしたりはしないのだが、多分それは子どものころに読んだターヒューンの「名犬ラッド」の影響だな。主人公のラッドというコリーは誇り高くて「笑われるぐらいなら鞭うたれた方がよかった」と書かれている。

そうか、そう言えば私がカツジ猫を好きなひとつは、彼が失敗したり困ったりしたとき、(多分、笑われまいとして)「何でもない」と平気なふりをすることだ。そこが一番好きかもしれない(笑)。

◇今日、文楽に着て行った叔母のワンピースは、黒地に黄色や赤や青の小さい花が飛んでいてかわいらしいし、厚手のウールでめちゃくちゃ暖かいんだけど、どうやら叔母も好きでよく着ていたらしく、ちょっと古びているのに着てみてから気がついた。これは仕事着にしておこう。似たようなのが数着あるから、当分はそれを着て、今着てるドット柄の灰色のと、赤と紺のチェックのとはクリーニングに出そう。
実は安心してまかせられるクリーニング店を教えてもらったので、ほんと助かっている。おかげで山とある叔母の服が順調に着まわせる。
でもこれも、何とか体型を維持してるからで、それもそろそろ怪しい。絶対二キロは太ってる。原稿のめどがついたらジムに行って体重を落としたいのだが、完成するまでは、無理をして風邪でも引いたらと恐いし、何よりも時間がなくてそれもできない。あーあ。

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カツジ猫