お里が知れる
ぶり大根を食べるつもりで材料も買っているのだが、昨日食べたカレーがおいしかったので、また作ろうかと思案中。どうも私はいったん食べだすと、もういつまでもやめられなくなるんだよねえ。
カレーなんて作ったの、実は何年ぶりだろう。思ったほどがつんと来ないで、優しい味だったが、だからまた食べたくなったのかもしれない。
昨日の土砂降りで庭がぬれてて、水まきはしなくてよさそうだったので、切った草をまとめて裏の斜面に運ぶだけにした。赤いケイトウはもう二つほど買ってきてもいいかな。
上の家の玄関のダンボールも、なかなかの量で縛って車に運びたいのだが、気温が上がってきちゃったからなあ。もう少ししたら決死隊の気分で作業に赴くか。下の家の床に置きまくってた紙袋も少しずつ片づいてきて、もう少ししたら、エアコンの点検とテレビの点検に電気屋さんを呼べそうな気配。
森村誠一さんが亡くなられたのか。731部隊の告発をはじめ、終始一貫、たくさんのよい仕事をされてきたと思う。感謝とともに、ゆっくりお休み下さいと手を合わせたくなる。
例の怪しげなコメントについて、ちょっとだけ。
実は私は、学生によく、歴史の本を読むときの禁じ手つうか裏技として、「変に公平で中立っぽい、まともな歴史書を読んでも、なかなか速攻でわかるもんじゃない。右でも左でも何でもいいが、思いっきり偏った、一方的な立場で書かれた本を読んだ方がいい。ものすごく、よくわかるから。ただし、必ず反対の立場から書かれた本も読んでおくこと」というアドバイスをする。あっちこっちに気をつかった用心深い無難な本は、往々にして何も伝わるものがないし、問題点もつかめない。
歴史でなくても科学でも社会でも、語る以上は絶対に偏向する。あたりまえだ。それもわからず、どこかに公平で正確な視点や伝達があるだろうと思うほど、逆に危険なことはない。それこそ一つの信仰で、幻想にすぎない。そんなものがあるかのように思いこむのもアホだが、自分がかいなでの調査で、そんなものを作れる存在になろうとか、なれるとか思うだけで、すでにたいがいの物知らずだとわかる。
あのへんてこなコメントを見ていると、文章もどこかずれてて、冷静な記述のスタイルをとろうとしているくせに、ときどき「してます」なんてことばが混じって、いかにも素人の怪しげな所作が満載だ。ひたすらにインチキっぽく、気持ちが悪い。とても手を出せる代物じゃない。人に見せたり、公開したりする文章を書くのなら、もちょっと練習してからの方がいいんじゃないかい。