きゃっ。
◇小林エリカ「マダム・キュリーと朝食を」の本、もうかなりだらだら読み直したんで、そろそろ誰かに貸そうかとか思ってて、ひょっと表紙の裏の見開きにある、いろんな写真を見たら、キュリー夫人のノートやなんからしい写真に混じって、足元から白い煙が上がっている、つながれた象の写真が。これって、もしかして作中のアジア象のトプシー? そりゃ当時としてはイベントだから、こんな写真も残ってたんでしょうね。胸が苦しくなるほど、つらい。
この小説、わりとどうでもいいような文章でも、妙にこたえる時がある。たとえば、
毎日は変わらずやってきて、テレビをつければ世の中は戦争や飢餓や地震や放射能や事件や事故、たくさんの不幸なことで溢れています。わたしには、壊れていない家もあるし、パパもおばあちゃんも友だちもいるし、食べ物どころかお菓子だってあって、わたしの不幸などまるで取るに足りないことのようにも感じられます。けれど、だからといって、わたしは哀しくないわけではない、とも思うのです。
という小学五年生の少女の述懐。どうということもないのに、忘れられなくなるのは、やっぱり湾岸戦争のとき、あの「空爆の日に会いましょう」を書いた作者のものだからなのだろうか。ありふれたことばばかりなのに、何かぬきさしならない力がある。
それから(以下ちょいネタばれ)、さまざまに数奇な運命をたどる猫の一家の、何だか「ダウントン・アビー」ならイーディスもどきに、きっと、ぱっとしないわりには、ろくな運命はたどらないだろうなと予想させる、ニューヨークにあこがれつづけていた妹猫が、結局のところ、そう悲惨な死に方もせず、でも母や祖母や姉の姿をさがそうとするように、電気じかけの写真箱の中のさまざまな映像を見続けて待っている姿。私は涙腺に欠陥があるのじゃないかと思うぐらい、とことん泣かない人間で、ここを読んでも泣きはしなかった。けど、それでも「ただ一匹、家族も持たず、子どもも作らず、年老いるまで、そこでひたすら待った。」という、この文章に、どうしてこんなに滂沱と涙をあふれさせたくなるんだろう。泣いてもいないのに、泣いたと同じようにのどが痛くなるんだろう。
◇叔母はわりといっぱい、羽根布団や上等の毛布を残していて、人にあげたりもしたのだが、使い心地や何かを確かめてみなければと思って、一応全部一度使ってみている。人にあげるには微妙に古そうで、でも気持ちいいのは私が使うことにしている。
昨日、夏の肌布団と入れ替えた、青い氷のような感じの薄い羽根布団は、どういう生地なのか、紙子ならきっとこうなんだろうなという感じで、妙にかさこそ音を立てる。それが逆に楽しくて、これは私が使おうと決めた。さっきカツジ猫がベッドカバーの上で、どたんばたん暴れていたのは、この音に興奮していたのだろうか。
あと、処分する服を選んでいた時、多分叔父のらしいが、紺と白のアロハシャツが出て来た。日に焼けたのか背中や袖のあちこちが、泥で汚れたように色あせていて、とてもよそには着て行けない。でも念のためにと着てみたら、何だかもうやたら着心地がいい。家で寝巻か作業着にして着ようと思っていたら、うっかり忘れて夕方の買い物に着て行ってしまった。まあいいか。叔母は私が、こういうみっともないことすると、身も世もなく嘆いて怒ったものだったから、今も草葉のかげからさぞや、やきもきしているだろうな(笑)。
◇いや、あらためて見るとなかなかっす。「女性映画が日本に来るとこうなる」ってハッシュタグ。誰かも書いてるが、この手のタイトルで私も見ないままにした映画が相当あるんじゃないかな。皆さま、ご油断めされるな。
http://matome.naver.jp/odai/2147384561028197701
沖ノ島の女人禁制への反応の鈍さにもつながる、日本の、女性というものに対するしょーもない、お手軽で安っぽいイメージに、つくづくもう、へきえきする。自分がそういう枠の中にいるのはまだしも、それを打ち破ろうとする他者の作品まで、その未熟さで汚すなよ。やる方、対象者、ともに男女に関係なく、ほんとに人をなめている。