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この人たちが歴史を作る

昼から雨がやんで陽も少し射して来たので、初詣に行ってみた。神さまに見ていただくのだからと、一応よそ行きのかっこうで出かけたら、鎮国寺のお店で甘酒を飲むとき、お店の人にスカートをほめられた。
鎮国寺はいつものように、もう梅が咲いていた。あそこは何だか毎年どんどんお守りだのお札だのかわいいものをいっぱい売るようになって、本堂の外陣の回りが、マーケットみたいになっている。昔はもっと地味だったと思うがなあ。セルフサービスでお茶も飲めるようになってるし。お守りなども、きれいでかわいいから、子どもたちが目を輝かせて選んでいた。私がちょっとほしいなと思った、小さい亀のお守りを小さい男の子が欲しがっていた。あと、レンコンの形のお守りも気に入ったし、両方ほしいなと思ったが、ものは増やせないしお金もないから、いつものように、お酒とお線香だけ買って帰った。

おみくじは、宗像大社も鎮国寺も、どっちも小吉だった。そしてどっちも要するに厳しい状況でもあきらめずに努力していれば、最後は必ずすべてうまく行く、みたいな感じのことが書いてあった。勉学と病気がまあまあ何とか大丈夫そうだったからいいや。

そう言えば、暮れや正月のニュースで、一番印象に残っているのが、70代の病気で寝たきりの娘さんを刃物で殺して、自分もその後近くの公園で自殺したとかいう90歳近いおばあさんの話だった。その年でそういう娘さんの介護をトイレの世話までして、最後は殺して、自分も死ぬという体力と能力と意志の強さに頭が下がるというとあきれられそうだが、本当に、どれだけの決意で、そこまでやって来られたのだろう。病気の娘さんの面倒を自分が見ようと決心され、それを実行されたのだろうし、最後の決断もそれなりの思いで下されたのだろうが、娘さんを死なせた後、家を出て、公園まで歩いて、死んで行くまで、何を考えられたのだろう、どういう思い出をよみがえらせておられたのだろう、などと、あれこれさまざま考え始めるととまらない。

以前、猫をとらえて檻にとじこめ、熱湯をかけ続けて殺した人間のニュースを聞いたとき、私が考えたのは、ノラ猫であれ飼い猫であれ、そうやって殺された猫たちが最後に思い浮かべたのは何だったろうということだった。暖かい寝床やおいしいものや優しい手を味わったことがあったのだろうか、それとも、そういうものを一つも知らないままに、寒い町の中で見上げた月の色や、春の朝の風の音を思い出しながら息絶えたのだろうかと思うと、首筋が煮え返るほど、私は自分もその一人である人間のすべてを憎んだ。

娘さんを殺して死んだおばあさんは、同じ人間である分、それほどの強さはないが、やはり私はあの時と似た心の震えを感じている。その方の長い人生。その間にあった、たくさんの希望と絶望。喜びや幸福もきっとあったはずだ。最後の死に場所までの道を一人で歩きながら、その方は何を思い出されたのか。後悔があったのか、しかたがないとか、これでいいとか思っておられたのか。

「介護殺人」という文庫本を読んだとき、肉親の介護に疲れて殺す人のすべてに共通していたのは、相手への深い愛だった。この方もそうだったのかもしれない。しかしそれに加えて、この方のここまでがんばって、最後まで何かをある意味やりとげられた力を思うと、今どきはもう男女の区別などない話かもしれないが、たとえば、これだけの意志や能力を若いときから活かせたら、育ててもらえる環境だったら、ものすごい立派な業績をあげてノーベル賞でもとるぐらいになったのではないかと思うのは、私の妄想なのだろうか。

何でもう、おみくじの小吉からこんな連想になるのか自分でもわからないが、愛するものや守るものがいないというのは、本当は幸運なことだと思う。昔からいつもそう思っていたが、今もやっぱりそう思う。その一方で「サイラス・マーナー」の話なんかは、私はやけに好きなのだけど。

とにかくそんなことを思いながら、よそ行きのかっこうのままジムに行って、買い物をして帰って来た。すっかり忘れていたのだが、今日は成人式だったようで、ケーキでも買おうかと寄ったお店では、成人式用の豪勢な特別ショートケーキなんぞが売られていて、コートの下から袴がのぞく男性が、大きなケーキを買ったりしていた。特別製のショートケーキを買って帰って、夕食後に食べようと思ってひょっと手帳を見たら、今夜は市民連合オールむなかたの会議だった。あわてて飛び出し、遅れて飛び込み、九時過ぎて帰宅。参加者は二十人ほどで、いろんな組織や、別の地区など、新しいメンバーも加わっていた。

立憲野党が去年の暮れに、13項目の政策で合意をした。それに基づいて、衆院選で統一候補を立てようというのが主な議題だった。さまざまな政党や、団体や、個人の人たちの協力が自然に、次第につながりあってうねり出しているのを感じて、妙に身体が暖かくなった。意見も立場もさまざまに異なる人の中で、時間をかけて生まれて来ている信頼感。成果がなくても孤立しても、腐らず恐れず歩みつづけて来た人たちの清々しさと頼もしさ。歴史はこういう人たちが作るのだと、あらためて感じる。

写真は、昨日のと同じようなしめ縄で、二軒の家のもう一軒の玄関に飾ったもの。まだあちこちの建物には立派な門松が立っていて、ちょっと早い気もしましたが、今日、宗像神社の古札引き取り所に奉納して来ました。黄色い愛車の前につけていたお飾りもいっしょに納めて来ました。

ついでに、猫や犬たちの名前を墓標に刻んでいる、この近くの私の個人墓にもお参りして来ました。白黒猫のマキちゃんの名前も彫ってあります。指でなでてやって、まだこの世のどこかにいるのなら、無事で幸せに、もしもうそっちに行ってるのなら他の皆と仲よく幸せにと祈って来ました。墓標に刻んだ名で、私の近くでまだ生きているのは、灰色猫のグレイスと、しましま長毛猫のカツジだけになりました。

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カツジ猫