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そうだ、もうひとつあった

◎これは、そんなに腹が立つというほどではなく、ただ、いたく困るなあと思う種類のことは、「他人から借りた金で寄付をする」ような人というのが、私の周囲にはわりと多いかもしれない。世間の標準の分布状態を知らないから、何とも言えないですが。

聖母のように優しくて、弱い人を救ったり、天使のように無欲で、周囲の犠牲になったり、奴隷のように従順で、誰かの要求にすべて応じたり、それで人気が上がるのか感謝されるのかなめられてバカにされて使い倒されるのか、そこは人と状況次第でさまざまでしょうが、私がまったく解せないのは、こういう人たちって、自分が聖人天使奴隷になった分、その分のしわよせを私との関係で処理するんですよね。

そうやって他者につくした疲労や消耗のケアを私がする。そうやって窮屈になった時間のやりくりを私が無理して都合をつける。そういう図式ができているのに、その人はまるで気づかず、まるごと自分の甲斐性で、周囲や他人に奉仕し献身している気分になっている。

かくして私は奴隷の奴隷になり、聖人の聖人、天使の天使にさせられる。私のパワーや時間はすべて、その人を通して、その人がどう見ても過度につくしているところの、私が知らない、あるいは別につくしたくもない別の他人に流れこむ。

◎こういうことは、よくあるのでしょうか。どうなんだろう。
私は曽野綾子さんの考え方は、そんなに好きでもありませんが、時には納得することもあって、彼女が開発途上国の貧しい人々に援助を行うとき、それがきちんと使われているかを厳しくチェックするという話を書いていたのを読んで、何となく、自分の体験を思い出しました。その相手のために何かをしてやっているつもりで、こちらはいたら、何のことはない、それは全部、その相手が誰かに自分を優しく見せ有能に見せ従順に見せるために使われているにすぎない場合がある。

まあ、居候がノラ猫にエサをやるぐらいのことだったら、私も笑ってすませますがね、こちらも飢え死にしそうな状況のときに、居候が自分の食事とは別に、ノラ猫やカラスやトンビに毎日エサをわけあたえて、動物愛護家気分になっていたならば、さすがにちょっとは考える。

◎これがまた、ノラ猫やカラスやトンビもあなどれなくて、くれる相手には恥知らずで強欲ですから、いくらでももらいに来る。つまり、都合のいい相手と思ったら、周囲が自分に奉仕するのが当然と思っているような人は際限なくどこまでも求める。それを断れない人というのは、結局自分のために何かをしてくれている人や家族や集団まで危険にさらす。その人を蛇口にして、水がざあざあ、しょうもない相手にこぼれて行く。

いや、それが、その人個人の稼ぎとか、逆に不特定多数の人たちから奪って集めて再配分するのなら立派だし、いいのです。慈善とはそうしたもので、私はそれは支持するから。
でも、こういう蛇口人間は、決して多くの人に呼びかけたりはしません。自分で稼いだりもしません。あくまでも、自分の身内や、大事にしてくれる人からもらうものだけで、聖人天使奴隷になろうとする。そこがどう考えても、にせものだし、いい人や強い人や有能な人になった気分で快くなるためにしか、しているように見えないのです。

◎ぐちゃぐちゃ考えて、チェックするのもめんどうだから、私は自分の誰かに費やした労力が横流しされていると感じた段階で、援助はすべて打ち切ります。あるいは、その横流ししている相手まで、ひきうけて援助する覚悟を決めます。でも、あまりにも蛇口から流れる水量が四方八方のべつまくなしの大量だと、とても対応できないから、すまんけど、それだけ人につくしたいなら、自分の責任でやってくれと言うしかない。

いやもう、これもまた、読んでいて「きっと自分のことだ」と、全然ちがう人たちが思っているんだろうなあ。
これも言わなくていいことを念を押しておきますが、私の交際範囲は案外広くて、分岐していて、知られてないことが多いのですよ。もめごとも、ややこしい人間関係も、ひとつやふたつじゃありません。そこのところは、どうぞ誤解のないように。(笑)

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カツジ猫