ちっちゃい背中
連休ってもう終わったのかしら。それともお盆休みとつながる、今ははざまなのかしら。どっちにしても郵便局がやっと開いたので、今日は小包を持っていかなければ。
天気はあいかわらず、何だかおかしい。今朝は曇っていたが、わかるもんかと水まきをした。それが終わるころ、ぱらぱらと小粒の雨が降って来たけど、あてにならんぞと思っていたら、はたしてすぐに止んでしまった。そーら見ろと笑っていたら、今またしっかり降り出したようだ。どうなってんの。
周木律のミステリ「堂」シリーズを三巻まで読んで、今四冊め。数学マニアにはたまらんだろうなあ。私はそこはまったくわからないけど、わからなくても全然かまわず読み進められて楽しめるのが、作者の計算がきちんとしているところだね。巻を追うごとに、いろいろ趣向が変わるのも退屈しないし、あり得ないみたいな建物の姿も、豪壮な宮殿とかとはちがった贅沢さで魅せられる。
こんなのを読んでると、もちろんまるで、アリと象ほども比べ物にならないが、自分の小さな散らかった二軒の家が、それなりに秘密めいて謎めいて、壮麗な建築物であるかのように思えて来るのも妙に笑える。まるで昔、子どものころ、冒険小説や恋愛小説を読んで、似ても似つかない自分の毎日を、それに重ねて楽しんでいたような、おままごとのような気分になる。
同じように、いろんな作家や芸術家のすさまじい人生や業績についての本を読んでいても、それのささやかなまねごとをして生きているような自分の毎日が、冗談みたいに甘くてちっぽけだが、それなりに素敵に思えて来る。昔から思うけど、私は向上心とか名誉欲とかいうものが、ないわけではないけれど、どっかでものすごく欠落しているのかもしれない。
いかんいかん、そうそう早めに怠けモードに入ってしまっては。遊びたいのはやまやまだけど、ちょっともうひとがんばりしなくては。
猫のカツジの毛玉は、もうあと胸の真ん中にひとかたまりあるだけになった。でも、ここを切り取るのは、ちょっと至難の技だなあ。オスだけど、もちろんちゃんとおっぱいはあるし、がっぷりかまれそうな、お口の真ん前だし、よっぽど寝こけているときでもねらわないと。
写真のファイルをチェックしていると、子猫の元じゅんぺいの写真がいろいろ出て来る。手触りや鳴き声も思い出す。一番残っている印象は「ちっちゃかったなあ」ということだ。カツジや高齢猫のグレイスをなでても抱いても味わえないのは、あの手のひらにおさまりそうな、わりと短い毛の、あたたかくちっちゃい背中だ。もう子猫を育てることもないだろうから、あれがきっと最後の子猫の手触りになって残るのにちがいない。