なかなかに、あなどれない
クローゼットのこたつの上を片づけたくて、積んでいたラノベなのかちがうのか、軽い読み物を数冊一気読みした。以前にホロヴィッツのミステリと比べると、甘くてゆるいとばかにしたけど、あらためて読むと悪くなかった。私はこれを最近こういう小説が、「お店もの」ばっかがやたら多いので気になって、そういうものを適当に何冊か買ってみたのだが、同じ食べ物屋をあつかっていても作家によって設定も雰囲気もがらりとちがうし、型通りのように見えてキャラや人間関係もそれぞれ全然ちがっているし、どれも通り一遍でも陳腐でもなかった。しかもすらすら快適に読めるし、幸せにもなれる。
ドストエフスキーだのクッフェだの私小説や自然主義に比べると、苦しさも汚さものたうつどん底もない。政治も社会もほぼ出ない。軽やかで小綺麗で、きらきらとまぶしいけど、ジャン・ジュネや三島由紀夫のような妖しい危険さや激しさもない。
こういう小説は山ほどきっとあるのだろうし、後の時代にどれだけ残るのかもわからない。でも、これはこれでもいいのではないかと思った。今の社会や世界の美しさが生み出したものかもしれないし、その反対の苦しい現実が作り上げるものかもしれない。両方かもしれない。どちらにしても、描かれる現実は、さらさらしていても真剣でていねいで誠実だ。
ふと、映画「第三の男」のハリーのせりふ…「ボルジア家の毒は悲惨な時代でもミケランジェロのルネサンスという偉大な芸術を生み出した。スイスの平和は何を生んだ? 鳩時計だとさ」を思い出す。
でも俗で卑小でちっぽけでも、平和が鳩時計しか生み出さないなら、その方がいい、戦争や苦悩が作り出す偉大なものなど、なくていい。そんな気持ちで私は大学院生のころ友人たちと自費出版していた文庫の名を「鳩時計文庫」にしたのだった。
こうやって書かれて消えて行った、ささやかで美しい作品は、どの国にもどの時代にもきっと海の砂ほど多かったのだろう。そしてそれはそれで、人々や世の中をきちんと支えて救って来たのだろう。
はらわたをかきむしられ、心をねじきられ、自分や世界の醜さを見せつけられて絶望し、のたうつような小説も好きだ。でも、その対極にある、これらの作品を私は愛するし、これらを生み出した今の世の中を愛する。それは平和や人権や男女平等が自然と前提になって成立している世界でもある。それを声高に叫ばなくても、必死で守らなくても、当然のように誰もが当然の常識としている世界である。長い血みどろ泥まみれの戦いの上に築かれた世界だが、今その上に何ごともなかったように、小さな色とりどりの花々が咲き乱れている。