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◎毎日もう何をしているのかわからないほど、仕事が次々わいて出る。
昨日の「むなかた九条の会」の集いだが、小さいことからでも、次々報告しておこう。
お話をして下さった元女性教師の長崎で被爆した白石さん。
「夾竹桃が真っ赤に咲いていました。広島に新型爆弾が落ちたらしい、という話を皆で朝していました。そうしたら、ぴかっ、ど~んという衝撃が。その時、空は真っ黒で、太陽は真っ赤になりました。」
もう一人の講師、牧師の森部さん。福岡大空襲の時は9歳。地図を配って説明されました。
「父は町内の男性たちと家の消火をしていた。逃げれば敵前逃亡と同じで、ふみとどまるしかない。妊娠中の母と幼い妹を連れて逃げた。恵比寿橋の前から道路が混雑。自分は昔父と大阪の博物館で見た震災の絵で、人が橋からあふれて落ちている場面が記憶にあったから、そちらには行かないで、北の方に逃げた。途中できれいでしっかりした待避壕があったから入ろうとしたら、軍の兵士が入っていて、来るなと銃剣で追われた。ショックでわけがわからなかった。戦後、沖縄に行ってひめゆり部隊などの話を聞いて、軍隊は決して国民を守らない、国や天皇を守る、軍事行動に邪魔なものは国民でも排除するということを、自分のその思い出と結びつけて、初めてはっきり理解した。」
震災後、被災地に入った宗像市共産党議員団(3名)の一人、末吉さんの報告。
「北九州からトラックで、バナナを積んで出発した。積んだ時は青かったが現地ではほどよく熟れていた。調理もしないで即食べられるからバナナは歓迎される。被災地ではこの震災で職を失った人が多いのが深刻だ。最近は非正規労働の人が増えていたから、即座に首を切られてしまう人が大変多い。だから、収入のあてがなく、せっかく仮設住宅ができても、光熱費などが自己負担になるし援助が受けられなくなるからと、避難所から出ない人も多い。自分は政府は現地の人にまず職を与えるべきだと思う。戦後、九州では失対(失業対策事業)として、道路工事などに失業者の人々を雇用した。あれを今やると瓦礫の撤去などにも効果的だ」
まだまだありますが、まあ、ぼちぼち。
◎昨日はカツジは網戸もひっかかず、いい子で、久しぶりに三匹じゃなかった、一人と二匹でいっしょに寝ました。
◎「江戸の紀行文」の感想とかこれも久しぶりにネットで見ていて、ありがたい感想ばかりいただいていますが、中に、私が「江戸時代の紀行の代表作として『奥の細道』をあげている」という紹介などもあって、いや、いったいぜんたいどう読んだらそういうことになるのかと頭をかかえています。「代表作ではない」と私ははっきり書いているのに。(笑)
たいがい見当違いな批判でも、そのように思われる原因がどこにあったかをチェックする資料にはなるのですが、ここまでまっさかさまに読みまちがえられると、対処のしかたはもう思いつかない。
多分、学生にもよくありますが、自分のそれまで信じていた権威ある常識と反対のものにふれた時、折り合いがつけられなくて、さしあたり両者を並列させてしまうんですかね。
以前、平和を守る活動をしている団体の集会の分科会で助言者になって、「戦争に比べれば平和がとにかくいい、感謝しよう、とばかり言っていたのでは、平和が劣化して結局また戦争につながる。平和な時代を生きることのつらさ、苦しさも認めて、慰め、励まし合って、質のいい平和を築いてゆくべきだ」と、その場では一応まとめたのに、あとの報告書を見たら、皆で「戦争の悲惨さと平和のありがたさを確認した」ことになっていて、だ~っと脱力したのを思い出しました。人間は結局自分が持っている枠と容量にあてはめてしか理解しようとしないんだろうなあ。