ひたすらに、いたましい。
◇詳しいことはわからないし、政治に関してあれほど取材能力がないとしか見えない報道機関が、こういう事件でどのくらいちゃんとした取材ができるのか、一抹どころじゃない不安はあるけど、ただ、記事で見る限りでは、相模原の事件の犯人は、以前にそこで働いていて、自分も精神的に不安定か何かで入院したり治療を受けたりしていた人らしい。
つまり、介護する側として何かに絶望し、一方で自分も患者として、その絶望し嫌悪し拒否した存在になりつつあると意識したとき、感じた絶望というのはどういうものだったかと思うと、こちらが苦しくなってしまう。
以前は教師になろうとし、実習もちゃんとやっていたのだから、エリートではないまでも、自分が社会の一員として少数者や落ちこぼれになる可能性は、そんなに予想していなかったのではないだろうか。
それが、こんなご時世だからか、いつの世でもか、思ったようには行かなくて、この人の目には「生きているのが悲惨で不幸でひたすら醜いうとましいだけの存在」みたいに見えていたかもしれない障害者を見て、そこに何の希望も未来も見出せなくて(そこまでだったら、「ああいう人に人格はあるのかね」とか言っていた石原都知事と同じだが。知事よりも実際の介護に携わっていただけ、その実感は深いにしても)、さらに自分がそういう存在になるかもしれないと感じたら、それこそ死に物狂いで、そこから抜け出し、「自分はそうじゃない」ことを示すための何かをしなくてはいられなかったのだろうと思うと、やるせなくて、情けなくて、くやしくてならない。
◇アメリカで同性愛者の集まりを襲ったテロリストも、たしか自身が抑圧された同性愛者だったとどこかで読んだ。
いろいろと、やりきれない。
自分がそういう存在になったら、世の中からはじかれさげすまれ、生きていけないだろうという恐怖。
そうならないためには、率先して自分がそういう存在を傷つけなければだめだという危機感。
弱者になることを恐怖する弱者たちの悲鳴が聞こえる。