ひまわりと朝顔
明日(というか今日)は雨も少し降るらしい。今日(というか昨日)の夕方、バテてふらふらになりながら、鯉のぼりを解体して玄関にひきずりこんでいて、ほんによかったわあ。
ひまわりと朝顔を庭に植える計画についても、構想はともかく、さしあたり種はまいておかなくてはと、あせっている。この週末に、できるかな。
木々もむしゃむしゃ伸びてきて、やわらかい若芽がきれいなので、つい切りかねていると、あっという間にぶっとい枝になってしまうので、そろそろ心を鬼にして、ばっさばっさと刈り込まなくては。
それだって計画がある。上の家の玄関前のトネリコの木は、年末のクリスマスツリーに使えるように刈り込みたいし、中庭の樫の木は、切っても切っても生えてくる、たのもしい生命力なのだが、ホースを引っ掛けるY字型の枝を作って、あとは丸坊主に近く、でもカッコよくしてしまいたい。その横のニオイバンマツリは満開で、中庭全体に芳香をただよわせているから、刈り込みは花が終わってからにしよう。ああ、勉強もしなくてはならないのに、考えることが多すぎる。
一時元気がなかった上の家の玄関前の鉢の竹が、なぜかまた元気になって青々として来た。これなら今年の七夕もきっとこれを使えるなと心強い。
あじさいの茂みも一段と巨大になり、つぼみがいっぱいついている。
さっきラジオで障がい者の職業などについて話をしていた。障がい者をマイナスイメージでとらえるのは、まちかってるし、時代遅れみたいな話で、すべてもっとものことであるが、それにつけても思い出したこと。
友人が昔、中学校で特殊学級の担任をしていた。私はそういう方面の知識がまるでなかったので、彼女にいろんな話を聞いて、何が一番驚いたかって、そういうクラスには、身体が不自由とか精神的に不安定だとかそういう、あらゆる「普通の子とちがう」要素のある生徒が、いっしょに押し込まれてるということだった。「無茶苦茶やん、信じられない」と、私は激怒したのを覚えている。それまで何となく私は、そういう「普通とちがって特別な対応が必要な生徒」は、似たような症状の者が集められているものと自然に思っていた。そんな、足がない人と目が見えない人と記憶力がとぼしい人と自律神経が不安定な人とを、同じ病院に治療に行かせるようなことしてどうするんだ。離れ小島の診療所でもあるまいに。
いや離れ小島の診療所だったら、全島民が皆そこに行くからそれでいいのよ。その中で「普通とちがう」と判断した人だけ数人を別の小屋で治療して何の得るところがあるんだか。
そんな特殊学級だったら、全員を「普通」のクラスに戻して皆いっしょに教育するのと、どこがちがうってんだろう。私は戦後の日本だか教育だかをだめにしたのは自民党か日教組かどっちかと言われたら、一も二もなく自民党と言う。そういっしょくたにしていけなければ、ここ十年のアベ政治だと断言する。しかし、その日教組がしっかりしていて学校を運営していた時代に、こんな発想で特殊学級が作られていたことに何だかもう、ため息しか出ない。
今はどうなっているのか、ネットで検索してみても、よくわからない。昔とちがっているならいいが。