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ふりかえると(上)。

◇前進するためには、ふりかえらなくてはならない。
というわけで、母の死後、今日までに自分が何をして来たか、来なかったかを、整理しておきたい。

いろんな意味で母が亡くなったことは私の生活を大きく変えることだった。自分の今後について、急いで充分に考えてみなければならない出来事だった。
だが、私は最近まで、それを先延ばしにし続けていた。

何となく、何かのミステリで、夫を亡くした妻がアドバイスされて守っていたのは、「当面はなるべくこれまでの生活を変えないようにする」ということだったのも、ちらっと頭にあった。生活の根本がゆらいだ時、自分から大きな変革はするものではなく、これまでの日常を続けることが、無駄なエネルギーを省くという判断があった。

母が死んで、当面私がめざしたのは、母を愛し母に関わった人たちを、誰も悲しませないようにしなければいけないということだった。自分の不用意さや不注意で、その人たちを淋しい気持ちにさせてはならないし、母の思い出をつらいものに少しでもしてはいけないと思った。
それは、後になってももうやり直しがきかない、この時点だけの勝負であるから、そこは手が抜けないと考えて、そのことにだけ当面は集中した。今もそれは続いている。葬式、香典返し、お礼の手紙、形見分け、皆一瞬の油断もできない、失敗が許されないイベントだった。

◇それ以外に、母の死後、ゆっくり今後のことを考えられなかったのは、主に三つのイベントのせいだ。
まず、葬儀の半月後に私は人間ドックの予定を入れていた。1年前から決まっていた予定で、変更の理由も特になかった。しかし、母の死後、自分はとにかく生きて、生きのびるということが以後の生活設計や計画を立てる大前提であると思えば、まずその保障をもらうのに、これは一つの関門だった。

もし身体のどこかに異常が見つかれば、今後の計画には大きく影響する。だから、人間ドックが終わるまでは、何も決められなかったし、また、あまりひどい結果を出さないためには、その時までは体調管理にも気をつかわなくてはならなかった。私は1月なかばまで、そういう点では宙ぶらりんで、第二の人生に取り組むスタートラインに立てなかった。だから、その時期、なるべく自分を甘やかし、普通の日常を送るようにつとめた。

◇ドックの結果は、いろいろ問題はあったが、おおむね去年と同様で、大きな問題点はなく、この点はまずクリアした。その次に、もう母の四十九日と納骨が迫っていた。

私は母の死んだときから、悲しくも淋しくもなく、母といっしょにいる気分で充実していたのだが、こんなことがいつまで続くかわからないと思っていたし、はりつめているような気分は全然ないけれど、何かのはずみに、どっと崩れて大泣きするか茫然自失するかになる可能性はあると考えていた。それでも別にいいとは思っていたが、そのために何か大きな失敗をしてはまずいと用心していた。

母の遺骨は骨壺を入れた箱ごと、家の隅のこたつの上において、毎日花や水や仏飯を供えていた。母の好きな三浦洸一の歌も毎朝かけてやった。猫にエサをやったり神棚に水を上げたりするのと並行して、毎日そんなことをしていると、それは楽しくて、まるで母と暮らしているようで、ごく自然に私は、いつまでもこの生活が続くといいなあと思いはじめていた。そして、母の骨を田舎の墓地に納めるのが、あまり気が進まなかった。

それは、病院に毎晩行って、母に触れて母と話して、そんな日々がいつまでも続くものではないし、続いたら経済的にもその他の面でも大変だとはわかっていて、それでも、いつまでもこのままならいいなあとぼんやり感じていたのに似ていた。そして明らかに、無神論者で唯物論者であってもなくても、私は母の納骨で、母をもう一度失い、もう一度別れることになると強く感じていた。

◇それでも、そんな感傷は無視するしかないとわかっていたし、四十九日も納骨も予定を変えるつもりはなかった。ただ、それは、やはり何かを身体からひきはがされるような淡い苦痛を生みそうだったし、その前後、自分の気持ちは不安定だし、何かをひきはがされた肌を一人で静かになめていたわるような気分で、田舎の家でひと晩を過ごしたかった。その時に泣けても泣けなくても、自分の心に何が起こっても、そこでもう一度、今度は他の誰を気づかうのでもなく、自分自身をいたわりたかった。
だから、その前後数日だけは、かなり無理をして予定を空白にした。自分の無防備で傷ついた心をいたわって、次のステップに進むために。

しかし、その時に沖ノ島関係の会議に出てくれという連絡が入った。私は予定があるからと断ったが、何とか都合をつけてほしいと頼まれた。どうしても無理だと言うと、あきらめてもらえたが、もう、それで私の心は乱されて、落ちついて母を送り出し別れを告げる心境にはなれなかった。

◇これは私の責任である。ゆくりなくも思い出したのは、母を深く愛して幼いときから一心同体といっていいほどだった私の、母への愛が決定的にさめたのは、これと似たことが原因だったということだった。
私はまだ30代だった。私が大学院生のころ、飼い始めた私にとって最初の飼い猫は、年とって手術をくり返し、次第に弱って死にかけていた。今日か明日かというその日に、田舎の母が私に電話をかけて来て、何かのことで相談があるから帰って来いと言った。

思えば母も、あのころから次第に弱ってきて、私を頼りにしはじめる、ちょうど最初の時期だったのだ。それまでは私などいなくても何でも一人で決めて、実行していた。それが次第に私に自分の補佐をさせようとする、あれが最初の兆候だったかもしれない。
だから私も対応に慣れてなかった。それと、私の多分死ぬまで治らない、決定的な傾向だ。時間であれ、ものであれ、それを誰かがどこかで要求し期待していると思ったとたん、もうその時間もものも他の何でも、私は汚されたと感じる。心おきなく安心して、自分がそれに集中できないのだったら、それは私にはないも同じだ。

私は周囲にも他人にも、献身的になるし、あきらめよく自分を捨てる。しかし、その分、「これまでは、ここだけは、自分のもの」と確保した範囲には、絶対に手をつけてほしくないどころか、目を向けられるのさえ我慢できない。
その時も、そうだった。もちろん母には、今帰れないと断った。でも猫が死にそうだからと言えなかった。母が猫なんかどうでもいいとか、ひどいことを言ったら、もう二度と母を許せないと思ったのもある。揺れ続ける心を、自分以外の人に

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カツジ猫